2008年11月12日水曜日

十四の十一

 三千代は涙《なみだ》の中《なか》で始《はじ》めて笑つた。けれども一言《ひとこと》も口《くち》へは出《だ》さなかつた。代助は猶己れを語る隙《ひま》を得た。――
「僕は今更こんな事を貴方《あなた》に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方《あなた》に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方《あなた》に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘《わがまゝ》です。だから詫《あやま》るんです」
「残酷では御座いません。だから詫《あや》まるのはもう廃《よ》して頂戴」
 三千代の調子は、此時急に判然《はつきり》した。沈《しづ》んではゐたが、前に比べると非常に落ち着《つ》いた。然ししばらくしてから、又
「たゞ、もう少し早く云つて下《くだ》さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――
「ぢや僕が生涯|黙《だま》つてゐた方が、貴方《あなた》には幸福だつたんですか」
「左様《さう》ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私《わたくし》だつて、貴方《あなた》が左様《さう》云つて下《くだ》さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」
 今度は代助の方が微笑した。
「夫《それ》ぢや構はないでせう」
「構《かま》はないより難有いわ。たゞ――」
「たゞ平岡に済《す》まないと云ふんでせう」
 三千代は不安らしく首肯《うなづ》いた。代助は斯う聞いた。――
「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方《あなた》は平岡を愛してゐるんですか」
 三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼《め》も口《くち》も固《かた》くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡は貴方《あなた》を愛してゐるんですか」
 三千代は矢張り俯《う》つ向《む》いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問《しつもん》の上に与へやうとして、既に其言葉が口《くち》迄|出掛《でかゝ》つた時、三千代は不意に顔を上《あ》げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙《なみだ》さへ大抵は乾《かは》いた。頬《ほゝ》の色《いろ》は固より蒼かつたが、唇《くちびる》は確《しか》として、動く気色《けしき》はなかつた。其間《そのあひだ》から、低く重い言葉が、繋《つな》がらない様に、一字づゝ出《で》た。
「仕様がない。覚悟を極《き》めませう」
 代助は脊中《せなか》から水《みづ》を被《かぶ》つた様に顫《ふる》へた。社会から逐ひ放《はな》たるべき二人《ふたり》の魂《たましひ》は、たゞ二人《ふたり》対《むか》ひ合つて、互《たがひ》を穴の明《あ》く程眺めてゐた。さうして、凡《すべ》てに逆《さから》つて、互《たがひ》を一所に持ち来《き》たした力を互《たがひ》と怖《おそ》れ戦《おのの》いた。
 しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔《かほ》に当《あ》てて泣き出《だ》した。代助は三千代の泣《な》く様《さま》を見るに忍《しの》びなかつた。肱《ひぢ》を突《つ》いて額《ひたひ》を五指《ごし》の裏《うら》に隠《かく》した。二人《ふたり》は此態度を崩《くづ》さずに、恋愛の彫刻の如く、凝《じつ》としてゐた。
 二人《ふたり》は斯う凝《じつ》としてゐる中《うち》に、五十年を眼《ま》のあたりに縮《ちゞ》めた程の精神の緊《きん》張を感じた。さうして其《その》緊《きん》張と共に、二人《ふたり》が相並んで存在して居《お》ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑《けい》と愛の賚《たまもの》とを同時に享《う》けて、同時に双方を切実に味はつた。
 しばらくして、三千代は手帛《ハンケチ》を取つて、涙を奇麗に拭《ふ》いたが、静《しづ》かに、
「私《わたくし》もう帰つてよ」と云つた。代助は、
「御帰りなさい」と答へた。
 雨は小降《こぶり》になつたが、代助は固より三千代を独《ひと》り返す気はなかつた。わざと車《くるま》を雇はずに、自分で送つて出《で》た。平岡の家迄|附《つ》いて行く所を、江戸川の橋の上《うへ》で別《わか》れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲《まが》る迄|見送《みおく》つてゐた。夫《それ》から緩《ゆつ》くり歩を回《めぐ》らしながら、腹《はら》の中《なか》で、
「万事終る」と宣告した。
 雨は夕方|歇《や》んで、夜《よ》に入つたら、雲がしきりに飛《と》んだ。其|中《うち》洗つた様な月が出《で》た。代助は光《ひかり》を浴《あ》びる庭の濡葉《ぬれは》を長い間《あひだ》椽側から眺《なが》めてゐたが、仕舞に下駄を穿《は》いて下《した》へ降《お》りた。固より広い庭でない上《うへ》に立木《たちき》の数《かず》が存外多いので、代助の歩《ある》く積《せき》はたんと無《な》かつた。代助は其|真中《まんなか》に立つて、大《おほ》きな空《そら》を仰いだ。やがて、座敷から、昼間《ひるま》買つた百合《ゆり》の花を取つて来《き》て、自分の周囲《まはり》に蒔《ま》き散らした。白い花瓣《くわべん》が点々《てん/\》として月の光《ひかり》に冴《さ》えた。あるものは、木下|闇《やみ》に仄《ほの》めいた。代助は何をするともなく其|間《あひだ》に曲《かゞ》んでゐた。
 寐る時になつて始めて座敷へ上《あ》がつた。室《へや》の中《なか》は花の香《にほひ》がまだ全く抜《ぬ》けてゐなかつた。

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