兄《あに》は滅多に代助の所へ来《き》た事のない男であつた。たまに来《く》れば必ず来《こ》なくつてならない用事を持つてゐた。さうして、用を済《す》ますとさつさと帰つて行つた。今日《けふ》も何事《なにごと》か起《おこ》つたに違《ちがひ》ないと代助は考へた。さうして、それは昨日《きのふ》誠太郎を好加減《いゝかげん》に胡魔化《ごまくわ》して返《かへ》した反響だらうと想像した。五六|分《ぷん》雑談をしてゐるうちに、兄《あに》はとう/\斯《か》う云ひ出《だ》した。
「昨夕《ゆふべ》誠太郎が帰《かへ》つて来《き》て、叔父《おぢ》さんは明日《あした》から旅行するつて云ふ話《はなし》だから、出《で》て来《き》た」
「えゝ、実《じつ》は今朝《けさ》六時|頃《ごろ》から出《で》やうと思つてね」と代助は嘘《うそ》の様な事を、至極冷静に答《こた》へた。兄《あに》も真面目な顔をして、
「六時に立てる位な早起《はやおき》の男なら、今|時分《じぶん》わざわざ青山《あをやま》から遣《や》つて来《き》やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り予想の通《とほ》り肉薄《にくはく》の遂行に過ぎなかつた。即ち今日《けふ》高木と佐川の娘を呼んで午餐を振舞《ふるま》ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ父《ちゝ》の命令であつた。兄《あに》の語《かた》る所によると、昨夕《ゆふべ》誠太郎の返事を聞いて、父《ちゝ》は大いに機嫌を悪くした。梅子は気を揉《も》んで、代助の立《た》たない前に逢《あ》つて、旅行を延《の》ばさせると云ひ出《だ》した。兄《あに》はそれを留《と》めたさうである。
「なに彼奴《あいつ》が今夜中《こんやぢう》に立《た》つものか、今頃《いまごろ》は革鞄《かばん》の前へ坐《すは》つて考へ込んでゐる位《ぐらゐ》のものだ。明日《あした》になつて見ろ、放《ほう》つて置いても遣《や》つて来《く》るからつて、己《おれ》が姉《ねえ》さんを安心させたのだよ」と誠吾は落付《おちつき》払つてゐた。代助は少し忌々《いま/\》しくなつたので、
「ぢや、放《ほう》つて置いて御覧なされば好《い》いのに」と云つた。
「所《ところ》が女《をんな》と云ふものは、気の短《みぢ》かいもので、御父《おとう》さんに悪《わる》いからつて、今朝《けさ》起《お》きるや否や、己《おれ》をせびるんだからね」と誠吾は可笑《おかし》い様な顔《かほ》もしなかつた。寧《むし》ろ迷惑さうに代助を眺《なが》めてゐた。代助は行くとも、行かないとも決答を与へなかつた。けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで返《かへ》して仕舞ふ勇気も出《で》なかつた。其上《そのうへ》午餐を断つて、旅行するにしても、もう自分の懐中《くわいちう》を当《あて》にする訳《わけ》には行《い》かなかつた。矢張り、兄とか嫂《あによめ》とか、もしくは父《ちゝ》とか、いづれ反対派の誰《だれ》かを痛《いた》めなければ、身動《みうごき》が取《と》れない位地にゐた。そこで、即《つ》かず離《はな》れずに、高木《たかぎ》と佐川の娘《むすめ》の評判をした。高木には十年程|前《まへ》に一遍|逢《あ》つた限《ぎり》であつたが、妙なもので、何処《どこ》かに見《み》覚があつて、此間《このあひだ》歌舞伎座で眼《め》に着《つ》いた時《とき》は、はてなと思つた。これに反して、佐川の娘《むすめ》の方は、つい先達《せんだつ》て、写真を手にした許《ばかり》であるのに、実物に接《せつ》しても、丸で聯想が浮《うか》ばなかつた。写真は奇体なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、写真の誰彼《だれかれ》を極《き》めるのは容易であるが、その逆《ぎやく》の、写真から人間《にんげん》を定める方は中々《なか/\》六づかしい。是《これ》を哲学にすると、死《し》から生《せい》を出《だ》すのは不可能だが、生《せい》から死《し》に移るのは自然の順序であると云ふ真理に帰着する。
「私《わたし》は左様《さう》考へた」と代助が云つた。兄《あに》は成程と答へたが別段感心した様子もなかつた。葉巻《はまき》の短《みぢ》かくなつて、口髭《くちひげ》に火《ひ》が付きさうなのを無暗に啣《くわ》へ易《か》えて、
「それで、必ずしも今日《けふ》旅行する必要もないんだらう」と聞《き》いた。
代助はないと答へざるを得なかつた。
「ぢや、今日《けふ》餐《めし》を食《く》ひに来《き》ても好《い》いんだらう」
代助は又|好《い》いと答へない訳《わけ》に行《い》かなかつた。
「ぢや、己《おれ》はこれから、一寸《ちよつと》他所《わき》へ回《まは》るから、間違《まちがひ》のない様に来《き》てくれ」と相変らず多忙に見えた。代助はもう度胸を据ゑたから、何《ど》うでも構はないといふ気で、先方に都合の好《い》い返事を与へた。すると兄《あに》が突然、
「一体|何《ど》うなんだ。あの女を貰ふ気はないのか。好《い》いぢやないか貰《もら》つたつて。さう撰《え》り好《ごの》みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄《げんろく》時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の人間《にんげん》は男女に限らず非常に窮屈な恋《こひ》をした様だが、左様《さう》でもなかつたのかい。――まあ、どうでも好《い》いから、成る可《べ》く年寄《としより》を怒《おこ》らせない様に遣《や》つてくれ」と云つて帰つた。
代助は座敷へ戻《もど》つて、しばらく、兄《あに》の警句を咀嚼してゐた。自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を勧《すゝ》める方《ほう》でも、怒《おこ》らないで放つて置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の好《い》い結論を得た。
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