2008年11月13日木曜日

十の四

 三千代の顔《かほ》は此前《このまへ》逢《あ》つた時《とき》よりは寧ろ蒼白《あをしろ》かつた。代助に眼《め》と顎《あご》で招《まね》かれて書斎の入口《いりぐち》へ近寄《ちかよ》つた時、代助は三千代の息《いき》を喘《はづ》ましてゐることに気が付いた。
「何《ど》うかしましたか」と聞《き》いた。
 三千代は何《なに》にも答へずに室《へや》の中《なか》に這入《はいつ》て来《き》た。セルの単衣《ひとへ》の下《した》に襦袢を重《かさ》ねて、手《て》に大きな白い百合《ゆり》の花《はな》を三本|許《ばかり》提《さ》げてゐた。其百合《そのゆり》をいきなり洋卓《テーブル》の上《うへ》に投《な》げる様に置《お》いて、其|横《よこ》にある椅子《いす》へ腰《こし》を卸《おろ》した。さうして、結《ゆ》つた許《ばかり》の銀杏|返《がへし》を、構《かま》はず、椅子《いす》の脊《せ》に押《お》し付《つ》けて、
「あゝ苦《くる》しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑《わら》つた。代助は手を叩《たゝ》いて水《みづ》を取り寄《よ》せ様とした。三千代は黙《だま》つて洋卓《テーブル》の上《うへ》を指《さ》した。其所《そこ》には代助の食後《しよくご》の嗽《うがひ》をする硝子《がらす》の洋盃《コツプ》があつた。中《なか》に水《みづ》が二口許《ふたくちばかり》残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞《き》いた。
「此奴《こいつ》は先刻《さつき》僕《ぼく》が飲んだんだから」と云つて、洋盃《コツプ》を取《と》り上《あ》げたが、※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇《ちうちよ》した。代助の坐《すは》つてゐる所から、水《みづ》を棄《す》てやうとすると、障子の外《そと》に硝子戸《がらすど》が一枚邪魔をしてゐる。門野《かどの》は毎朝椽側の硝子戸《がらすど》を一二枚宛|開《あ》けないで、元《もと》の通《とほ》りに放《ほう》つて置く癖《くせ》があつた。代助は席《せき》を立《た》つて、椽へ出《で》て、水《みづ》を庭《には》へ空《あ》けながら、門野《かどの》を呼《よ》んだ。今ゐた門《かど》野は何処《どこ》へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少《すこ》しまごついて、又|三千代《みちよ》の所《ところ》へ帰つて来《き》て、
「今《いま》すぐ持《も》つて来《き》て上《あ》げる」と云ひながら、折角|空《あ》けた洋盃《コツプ》を其儘|洋卓《テーブル》の上に置《お》いたなり、勝手の方へ出《で》て行つた。茶《ちや》の間《ま》を通ると、門野《かどの》は無細工な手をして錫《すゞ》の茶壺《ちやつぼ》から玉露を撮《つま》み出《だ》してゐた。代助の姿《すがた》を見て、
「先生、今|直《ぢき》です」と言訳《いひわけ》をした。
「茶は後《あと》でも好《い》い。水《みづ》が要《い》るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ出《で》た。
「はあ、左様《さう》ですか。上《あ》がるんですか」と茶壺《ちやつぼ》を放り出《だ》して門野も付《つ》いて来《き》た。二人《ふたり》で洋盃《コツプ》を探《さが》したが一寸《ちよつと》見付《みつ》からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて置《お》けば可《い》いのに」と代助は水道の栓《せん》を捩《ねぢ》つて湯呑に水を溢《あふ》らせながら云つた。
「つい、小母《をば》さんに、御客さんの呉《く》る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野《かどの》は気の毒さうに頭《あたま》を掻《か》いた。
「ぢや、君が菓子を買《かひ》に行《い》けば可《い》いのに」と代助は勝手《かつて》を出《で》ながら、門野《かどの》に当《あた》つた。門野《かどの》はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外《ほか》にも、まだ色々《いろ/\》買《かひ》物があるつて云ふもんですからな。足《あし》は悪《わる》し天気は好《よ》くないし、廃《よ》せば好《い》いんですのに」
 代助は振《ふ》り向きもせず、書斎へ戻《もど》つた。敷居《しきゐ》を跨いで、中《なか》へ這入るや否や三千代の顔《かほ》を見ると、三千代は先刻《さつき》代|助《すけ》の置《お》いて行《い》つた洋盃《コツプ》を膝の上《うへ》に両手で持つてゐた。其|洋盃《コツプ》の中《なか》には、代助が庭《には》へ空《あ》けたと同じ位に水《みづ》が這入《はい》つてゐた。代助は湯呑を持《も》つた儘《まゝ》、茫然として、三千代の前《まへ》に立《た》つた。
「何《ど》うしたんです」と聞《き》いた。三千代は例《いつも》の通り落ち付いた調子で、
「難有《ありがた》う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]レーの漬《つ》けてある鉢《はち》を顧《かへり》みた。代助は此|大鉢《おほはち》の中《なか》に水を八分目《はちぶんめ》程|張《は》つて置いた。妻《つま》楊枝位な細《ほそ》い茎《くき》の薄青《うすあを》い色《いろ》が、水《みづ》の中《なか》に揃《そろ》つてゐる間《あひだ》から、陶器《やきもの》の模様が仄《ほの》かに浮《う》いて見えた。
「何故《なぜ》あんなものを飲んだんですか」と代助は呆《あき》れて聞《き》いた。
「だつて毒《どく》ぢやないでせう」と三千代は手に持《も》つた洋盃《コツプ》を代助の前へ出《だ》して、透《す》かして見《み》せた。
「毒《どく》でないつたつて、もし二日《ふつか》も三日《みつか》も経《た》つた水《みづ》だつたら何《ど》うするんです」
「いえ、先刻《さつき》来《き》た時、あの傍《そば》迄|顔《かほ》を持《も》つて行つて嗅《か》いで見たの。其時、たつた今|其鉢《そのはち》へ水《みづ》を入れて、桶《おけ》から移《うつ》した許《ばかり》だつて、あの方《かた》が云つたんですもの。大丈夫だわ。好《い》い香《にほひ》ね」
 代助は黙《だま》つて椅子へ腰《こし》を卸した。果して詩《し》の為《ため》に鉢《はち》の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促《うな》がされて飲んだのか、追窮する勇気も出《で》なかつた。よし前者《ぜんしや》とした所で、詩を衒《てら》つて、小説の真似なぞをした受売《うけうり》の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう好《よ》くなりましたか」と聞《き》いた。

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