2008年11月12日水曜日

十三の五

 しばらく黙然《もくねん》として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬《ほゝ》から血《ち》の色《いろ》が次第に退《しり》ぞいて行《い》つて、普通よりは眼《め》に付く程|蒼白《あをしろ》くなつた。其時《そのとき》代助は三千代と差向《さしむかひ》で、より長く坐《すは》つてゐる事の危険に、始めて気が付《つ》いた。自然の情|合《あひ》から流《なが》れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準《じゆん》縄の埒《らつ》を踏《ふ》み超えさせるのは、今《いま》二三|分《ぷん》の裡《うち》にあつた。代助は固より夫《それ》より先《さき》へ進《すゝ》んでも、猶|素知《そし》らぬ顔《かほ》で引返《ひきかへ》し得《う》る、会話の方を心得《こゝろえ》てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出《で》て来《く》る男女の情話が、あまりに露骨《ろこつ》で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪《あやし》んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる為《ため》に、舶来の台詞《せりふ》を用ひる意志は毫もなかつた。少《すく》なくとも二人《ふたり》の間《あひだ》では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所《そこ》に、甲の位地から、知らぬ間《ま》に乙の位置に滑《すべ》り込む危険が潜《ひそ》んでゐた。代助は辛《から》うじて、今一歩《いまいつぽ》と云ふ際《きは》どい所で、踏み留《とゞ》まつた。帰る時、三千代《みちよ》は玄関迄送つて来《き》て、
「淋《さむ》しくつて不可《いけ》ないから、又|来《き》て頂戴」と云つた。下女はまだ裏《うら》で張物《はりもの》をしてゐた。
 表《おもて》へ出《で》た代助は、ふら/\と一丁程|歩《ある》いた。好《い》い所《ところ》で切《き》り上《あ》げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼《かれ》の心《こゝろ》にはさう云ふ満足が些《ちつ》とも無《な》かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命《めい》ずるが儘《まゝ》に、話し尽して帰れば可《よ》かつたといふ後|悔《くわい》もなかつた。彼《かれ》は、彼所《あすこ》で切り上《あ》げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、此前《このまへ》逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出《だ》した。代助は二人《ふたり》の過去を順次に溯《さかの》ぼつて見て、いづれの断面《だんめん》にも、二人《ふたり》の間に燃《もえ》る愛の炎《ほのほ》を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁《とつ》ぐ前、既《すで》に自分に嫁《とつ》いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重《おも》いものを、胸《むね》の中《なか》に投《な》げ込《こ》まれた。彼《かれ》は其《その》重量の為《ため》に、足《あし》がふらついた。家《いへ》に帰つた時、門野《かどの》が、
「大変|顔《かほ》の色《いろ》が悪《わる》い様ですね、何《ど》うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行《い》つて、蒼《あを》い額《ひたひ》から奇麗に汗《あせ》を拭《ふ》き取つた。さうして、長く延《の》び過《す》ぎた髪を冷水に浸《ひた》した。
 それから二日《ふつか》程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乗《の》つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の為《ため》に充分|話《はなし》をする決心であつた。給仕に名刺を渡《わた》して、埃《ほこり》だらけの受付《うけつけ》に待《ま》つてゐる間《あひだ》、彼《かれ》はしばしば袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接|間《ま》へ案内された。其所《そこ》は風|通《とほ》しの悪《わる》い、蒸《む》し暑《あつ》い、陰気な狭《せま》い部屋であつた。代助は此所《こゝ》で烟草《たばこ》を一本|吹《ふ》かした。編輯室と書《か》いた戸口《とぐち》が始終|開《あ》いて、人《ひと》が出《で》たり這入《はい》つたりした。代助の逢《あ》ひに来《き》た平岡も其|戸口《とぐち》から現《あら》はれた。先達て見《み》た夏服《なつふく》を着《き》て、相変らず奇麗な襟《カラ》とカフスを掛《か》けてゐた。忙《いそが》しさうに、
「やあ、暫《しばら》く」と云つて代助の前《まへ》に立《た》つた。代助も相手に唆《そゝの》かされた様に立ち上《あ》がつた。二人《ふたり》は立《た》ちながら一寸《ちよつと》話《はなし》をした。丁度編輯のいそがしい時《とき》で緩《ゆつ》くり何《ど》うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出《だ》して見て、
「失敬だが、もう一時間程して来《き》てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又|暗《くら》い埃《ほこり》だらけの階段を下《お》りた。表へ出《で》ると、夫《それ》でも涼《すゞ》しい風が吹いた。
 代助はあてもなく、其所《そこ》いらを逍遥《ぶらつ》いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話《はなし》を切《き》り出《だ》さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為《ため》に外《ほか》ならなかつた。けれども、夫《それ》が為《ため》に、却つて平岡の感情を害《がい》する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何《ど》んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成|案《あん》はなかつた。代助は三千代と相対《あひたい》づくで、自分等《じぶんら》二人《ふたり》の間《あひだ》をあれ以上に何《ど》うかする勇気を有《も》たなかつたと同時に、三千代のために、何《なに》かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日《けふ》の会見は、理知の作用から出《で》た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風《つむじ》に捲《ま》き込《こ》まれた冒険の働《はたら》きであつた。其所《そこ》に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫《それ》に気が付いてゐなかつた。一時間の後《のち》彼《かれ》は又編輯室の入口《いりぐち》に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。

0 件のコメント: