2008年11月12日水曜日

十三の一

 四日程《よつかほど》してから、代助は又|父《ちゝ》の命令で、高木の出立《しつたつ》を新橋迄見送つた。其日《そのひ》は眠《ねむ》い所を無理に早く起《おこ》されて、寐足《ねた》らない頭《あたま》を風《かぜ》に吹《ふ》かした所為《せゐ》か、停車場に着《つ》く頃《ころ》、髪《かみ》の毛の中《なか》に風邪《かぜ》を引《ひ》いた様な気がした。待合所《まちあひじよ》に這入《はい》るや否や、梅子から顔色《かほいろ》が可《よ》くないと云ふ注意を受けた。代助は何《なん》にも答へずに、帽子を脱《ぬ》いで、時々《とき/″\》濡《ぬ》れた頭《あたま》を抑えた。仕舞には朝《あさ》奇麗《きれい》に分《わ》けた髪《かみ》がもぢや/\になつた。
 プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、
「何《ど》うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勧めた。代助はたゞ難有うと答へた丈であつた。愈《いよ/\》汽車の出《で》る間際《まぎは》に、梅子はわざと、窓際《まどぎは》に近寄《ちかよ》つて、とくに令嬢の名を呼んで、
「近《ちか》い内《うち》に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は窓《まど》のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外《そと》へは別段の言葉も聞《きこ》えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人《よつた》りは、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭《あたま》を抑えて応じなかつた。
 車《くるま》に乗つてすぐ牛込へ帰《かへ》つて、それなり書斎へ這入つて、仰向《あほむけ》に倒れた。門野《かどの》は一寸《ちよつと》其様子を覗《のぞ》きに来《き》たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に引《ひ》つ掛《か》けてある羽織丈を抱《かゝ》へて出《で》て行つた。
 代助は寐《ね》ながら、自分の近き未来を何《ど》うなるものだらうと考へた。斯《か》うして打遣《うちや》つて置けば、是非共|嫁《よめ》を貰《もら》はなければならなくなる。嫁《よめ》はもう今迄《いままで》に大分《だいぶ》断《ことわ》つてゐる。此上|断《ことわ》れば、愛想を尽《つ》かされるか、本当に怒《おこ》り出《だ》されるか、何方《どつち》かになるらしい。もし愛想を尽《つ》かされて、結婚勧誘をこれ限《かぎ》り断念して貰《もら》へれば、それに越した事はないが、怒《おこ》られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを貰《もら》ひませうと云ふのは今代人《こんだいじん》として馬鹿気てゐる。代助は此《この》ヂレンマの間《あひだ》に※[#「彳+詆のつくり」、第3水準1-84-31]徊した。
 彼は父と違《ちが》つて、当初からある計画を拵らえて、自然を其計画通りに強ひる古風な人《ひと》ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵《こしら》えた凡ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父《ちゝ》が、自分の自然に逆《さか》らつて、父《ちゝ》の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻《つま》が、離縁状を楯《たて》に夫婦の関係を証拠|立《だ》てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父《ちゝ》に向つて述《の》べる気は、丸でなかつた。父《ちゝ》を理攻《りぜめ》にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父《ちゝ》の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。
 彼《かれ》は父《ちゝ》と兄《あに》と嫂《あによめ》の三人《さんにん》の中《うち》で、父《ちゝ》の人格に尤も疑《うたがひ》を置《お》いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父《ちゝ》の唯|一《いつ》の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父《ちゝ》の本意が何処《どこ》にあるかは、固《もと》より明《あき》らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、父《ちゝ》の心意を斯様《かやう》に揣摩する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子《おやこ》のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日《こんにち》迄の程度より以上に、父《ちゝ》と自分の間《あひだ》が隔《へだた》つて来《き》さうなのを不快に感じた。
 彼は隔離の極端として、父子《ふし》絶縁の状態を想像して見た。さうして其所《そこ》に一種の苦痛を認《みと》めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。寧《むし》ろそれから生ずる財源の杜絶《とぜつ》の方が恐ろしかつた。
 もし馬鈴薯《ポテトー》が金剛石《ダイヤモンド》より大切になつたら、人間《にんげん》はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後|父《ちゝ》の怒《いかり》に触れて、万一|金銭《きんせん》上の関係が絶えるとすれば、彼《かれ》は厭《いや》でも金剛石《ダイヤモンド》を放り出して、馬鈴薯《ポテトー》に噛《かぢ》り付かなければならない。さうして其|償《つぐなひ》には自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。
 彼は寐ながら、何時《いつ》迄も考へた。けれども、彼の頭《あたま》は何時《いつ》迄も何処《どこ》へも到|着《ちやく》する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を極《き》める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付《つ》け得る如く、自分の未来にも多少の影《かげ》を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。

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