2008年11月13日木曜日

九の三

 廊下|伝《づた》ひに中庭《なかには》を越《こ》して、奥《おく》へ来《き》て見ると、父《ちゝ》は唐机《とうづくえ》の前《まへ》へ坐《すは》つて、唐本《とうほん》を見《み》てゐた。父《ちゝ》は詩が好《すき》で、閑《ひま》があると折々支那人の詩集を読《よ》んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引《さくいん》になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来|上《あが》つた兄《あに》でも、成るべく近寄《ちかよ》らない事にしてゐた。是非|顔《かほ》を合《あは》せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方《どつち》か引張《ひつぱつ》て父《ちゝ》の前《まへ》へ出《で》る手段を取《と》つてゐた。代助も椽側迄|来《き》て、そこに気が付《つ》いたが、夫程《それほど》の必要もあるまいと思つて、座敷を一《ひと》つ通《とほ》り越して、父《ちゝ》の居|間《ま》に這入つた。
 父はまづ眼鏡《めがね》を外《はづ》した。それを読み掛けた書物の上《うへ》に置くと、代助の方に向き直《なほ》つた。さうして、たゞ一言《ひとこと》、
「来《き》たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏《おだやか》な位であつた。代助は膝《ひざ》の上《うへ》に手を置きながら、兄《あに》が真面目《まじめ》な顔をして、自分を担《かつ》いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又|苦《にが》い茶を飲《の》ませられて、しばらく雑談に時を移《うつ》した。今年《ことし》は芍薬《しやくやく》の出《で》が早いとか、茶摘歌《ちやつみうた》を聞《き》いてゐると眠《ねむ》くなる時候だとか、何所《どこ》とかに、大きな藤《ふぢ》があつて、其花の長さが四尺|足《た》らずあるとか、話《はなし》は好加減《いゝかげん》な方角へ大分《だいぶ》長く延《の》びて行《い》つた。代助は又《また》其方《そのほう》が勝手なので、いつ迄も延《の》ばす様にと、後《あと》から後《あと》を付《つ》けて行《い》つた。父《ちゝ》も仕舞には持て余《あま》して、とう/\、時に今日《けふ》御前を呼んだのはと云ひ出した。
 代助はそれから後《あと》は、一言《ひとこと》も口《くち》を利《き》かなくなつた。只謹んで親爺《おやぢ》の云ふことを聴《き》いてゐた。父《ちゝ》も代助から斯《か》う云ふ態度に出られると、長い間《あひだ》自分|一人《ひとり》で、講義でもする様に、述《の》べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞《き》いてゐた。
 父《ちゝ》の長《なが》談義のうちに、代助は二三の新《あたら》しい点も認《みと》めた。その一つは、御前は一体是からさき何《ど》うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄|父《ちゝ》からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外《はづ》す事に慣《な》れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口《くち》から出任《でまか》せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父《ちゝ》を怒《おこ》らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間|父《ちゝ》の頭《あたま》を教育した上《うへ》でなくつては、通じない理窟になる。何故《なぜ》と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破《いひやぶ》る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父《ちゝ》が、其通りを聞《き》いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯|通《つう》じつこないかも知れない。父《ちゝ》の気に入る様にするのは、何でも、国家の為《ため》とか、天下の為《ため》とか、景気の好《い》い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述《の》べて置けば済《す》むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気《ばかげ》てゐて、口《くち》へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序|立《だ》てゝ来《き》て、御相談をする積であると答へた。答へた後《あと》で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
 代助は次《つぎ》に、独立の出来る丈の財産が欲《ほ》しくはないかと聞かれた。代助は無論|欲《ほ》しいと答へた。すると、父《ちゝ》が、では佐川の娘《むすめ》を貰《もら》つたら好《よ》からうと云ふ条件を付《つ》けた。其財産は佐川の娘《むすめ》が持つて来《く》るのか、又は父《ちゝ》が呉《く》れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少《すこ》し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已《や》めた。
 次《つぎ》に、一層《いつそ》洋行する気はないかと云はれた。代助は好《い》いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出《で》て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父《ちゝ》の顔《かほ》が赤《あか》くなつた。

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