2008年11月13日木曜日

四の三

 代助は椅子に腰《こし》を掛《か》けた儘、新《あた》らしく二度の世帯《しよたい》を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。彼《かれ》の経歴は処世の階子段《はしごだん》を一二段で踏《ふ》み外《はづ》したと同じ事である。まだ高い所へ上《のぼ》つてゐなかつた丈が、幸《さひはひ》と云へば云ふ様なものゝ、世間の眼《め》に映ずる程、身体《からだ》に打撲《だぼく》を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ左様《さう》思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を打算《ださん》して見て、或は此方《こつち》の心《こゝろ》が向《むかふ》に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、其後《そのご》平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に外《そと》へ出《で》た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に戻《もど》らなければならなくなつた。平岡は其時|顔《かほ》の中心《ちうしん》に一種の神経を寄せてゐた。風《かぜ》が吹《ふ》いても、砂《すな》が飛《と》んでも、強い刺激を受けさうな眉《まゆ》と眉《まゆ》の継目《つぎめ》を、憚《はゞか》らず、ぴくつかせてゐた。さうして、口《くち》にする事《こと》が、内容の如何に関はらず、如何にも急《せわ》しなく、且つ切《せつ》なさうに、代助の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、重苦《おもくる》しい葛湯《くづゆ》の中《なか》を片息《かたいき》で泳《およ》いでゐる様に取れた。
「あんなに、焦《あせ》つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の姿《すがた》を見送つた代助は、口《くち》の内《うち》でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
 代助は此細君を捕《つら》まへて、かつて奥さんと云つた事がない。何時《いつ》でも三千代《みちよ》さん/\と、結婚しない前の通りに、本名《ほんみよう》を呼《よ》んでゐる。代助は平岡に分《わか》れてから又引き返して、旅宿《りよしゆく》へ行つて、三千代《みちよ》さんに逢つて話《はな》しをしやうかと思つた。けれども、何《なん》だか行《ゆ》けなかつた。足《あし》を停《と》めて思案《しあん》しても、今の自分には、行くのが悪《わる》いと云ふ意味はちつとも見出《みいだ》せなかつた。けれども、気《き》が咎《とが》めて行《い》かれなかつた。勇気を出《だ》せば行《い》かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。夫《それ》で家《うち》へ帰つた。其代り帰つても、落《お》ち付《つ》かない様な、物足《ものた》らない様な、妙な心持がした。ので、又|外《そと》へ出《で》て酒を飲《の》んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、何《ど》うかしてゐたんだ」と代助は椅子に倚《よ》りながら、比較的|冷《ひや》やかな自己で、自己の影を批判した。
「何《なに》か御用ですか」と門野《かどの》が又|出《で》て来《き》た。袴《はかま》を脱《ぬ》いで、足袋《たび》を脱《ぬ》いで、団子《だんご》の様な素足《すあし》を出《だ》してゐる。代助は黙《だま》つて門野《かどの》の顔《かほ》を見た。門野《かどの》も代助の顔を見て、一寸《ちよつと》の間《あひだ》突立《つゝた》つてゐた。
「おや、御呼《および》になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段|可笑《おか》しいとも思はなかつた。
「小母《おば》さん、御呼《およ》びになつたんぢやないとさ。何《ど》うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の間《ま》の方で聞《きこ》えた。夫から門野《かどの》と婆《ばあ》さんの笑ふ声がした。
 其時、待ち設けてゐる御客が来《き》た。取次《とりつぎ》に出《で》た門野《かどの》は意外な顔をして這入つて来《き》た。さうして、其顔を代助の傍《そば》迄持つて来《き》て、先生、奥さんですと囁《さゝ》やく様に云つた。代助は黙《だま》つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。

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