2008年11月12日水曜日

十一の八

 五六|分《ぷん》して、代助は兄《あに》と共《とも》に自分の席に返《かへ》つた。佐川の娘《むすめ》を紹介される迄は、兄《あに》の見え次第|逃《に》げる気であつたが、今《いま》では左様《さう》不可《いか》なくなつた。余《あま》り現金に見えては、却つて好《よ》くない結果を引き起《おこ》しさうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐《すは》つてゐた。兄《あに》も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い頭《あたま》を燻《いぶ》す程、葉巻《はまき》をゆらした。時々《とき/″\》評をすると、縫子《ぬひこ》あの幕《まく》は綺麗《きれい》だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問も掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其|澄《すま》した様子が却つて滑稽に思はれた。彼は今日《こんにち》迄|嫂《あによめ》の策略にかゝつた事が時々《とき/″\》あつた。けれども、只《たゞ》の一返も腹《はら》を立《た》てた事はなかつた。今度《こんど》の狂言も、平生ならば、退屈|紛《まぎ》らしの遊戯程度に解釈して、笑つて仕舞たかも知れない。夫許《そればかり》ではない。もし自分が結婚する気なら、却つて、此狂言を利用して、自《みづか》ら人巧的に、御目出度《おめでたい》喜劇《きげき》を作り上《あ》げて、生涯自分を嘲《あざ》けつて満足する事も出来た。然し此姉《このあね》迄が、今《いま》の自分を、父《ちゝ》や兄《あに》と共謀して、漸々《ぜん/\》窮地に誘《いざ》なつて行《ゆ》くかと思ふと、流石《さす》がに此|所作《しよさ》をたゞの滑稽として、観察する訳には行《い》かなかつた。代助は此先《このさき》、嫂《あによめ》が此事件を何《ど》う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。家《うち》のものゝ中《うち》で、嫂《あによめ》が一番|斯《こ》んな計画に興味をもつてゐたからである。もし嫂《あによめ》が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々|家族《かぞく》のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の頭《あたま》の何処《どこ》かに潜《ひそ》んでゐた。
 芝居の仕舞になつたのは十一時|近《ちか》くであつた。外《そと》へ出《で》て見ると、風は全く歇《や》んだが、月《つき》も星《ほし》も見《み》えない静《しづ》かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた。時間が遅《おそ》いので茶屋では話《はなし》をする暇《ひま》もなかつた。三人の迎《むかひ》は来《き》てゐたが、代助はつい車《くるま》を誂《あつら》へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、嫂《あによめ》の勧《すゝめ》を斥《しりぞ》けて、茶屋の前から電車に乗つた。数寄屋《すきや》橋で乗《の》り易《か》え様と思つて、黒《くろ》い路《みち》の中《なか》に、待ち合《あ》はしてゐると、小供を負《おぶ》つた神《かみ》さんが、退儀《たいぎ》さうに向《むかふ》から近|寄《よ》つて来《き》た。電車は向《むか》ふ側《がは》を二三度|通《とほ》つた。代助と軌道《レール》の間《あひだ》には、土《つち》か石《いし》の積《つ》んだものが、高《たか》い土手の様に挟《はさ》まつてゐた。代助は始《はじ》めて間違《まちが》つた所に立《た》つてゐる事を悟つた。
「御神さん、電車へ乗るなら、此所《こゝ》ぢや不可《いけ》ない。向側《むかふがは》だ」と教へながら歩《ある》き出《だ》した。神さんは礼を云つて跟《つ》いて来《き》た。代助は手探《てさぐり》でもする様に、暗《くら》い所を好加減《いゝかげん》に歩《ある》いた。十四五|間《けん》左《ひだり》の方へ濠際《ほりぎは》を目標《めあて》に出《で》たら、漸く停留所《ていりうじよ》の柱が見付《みつか》つた。神さんは其所《そこ》で、神田橋の方へ向《む》いて乗つた。代助はたつた一人《ひとり》反対の赤坂|行《ゆき》へ這入つた。
 車《くるま》の中《なか》では、眠《ねむ》くて寐《ね》られない様な気がした。揺《ゆ》られながらも今夜の睡眠が苦になつた。彼《かれ》は大いに疲労して、白昼《はくちう》の凡てに、惰気《だき》を催うすにも拘はらず、知られざる何物《なにもの》かの興奮の為《ため》に、静かな夜《よ》を恣《ほしいまゝ》にする事が出来ない事がよくあつた。彼《かれ》の脳裏《のうり》には、今日《けふ》の日中《につちう》に、交《かは》る/″\痕《あと》を残した色彩が、時《とき》の前後と形《かたち》の差別を忘れて、一度に散《ち》らついてゐた。さうして、それが何《なに》の色彩であるか、何の運動であるか慥《たし》かに解《わか》らなかつた。彼《かれ》は眼《め》を眠《ねむ》つて、家《うち》へ帰《かへ》つたら、又《また》ヰスキーの力《ちから》を借りやうと覚悟した。
 彼《かれ》は此《この》取り留めのない花やかな色調《しきちやう》の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所《そこ》にわが安住の地を見出《みいだ》した様な気がした。けれども其安住の地は、明《あき》らかには、彼《かれ》の眼《め》に映じて出《で》なかつた。たゞ、かれの心《こゝろ》の調子全体で、それを認《みと》めた丈であつた。従つて彼《かれ》は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係《くわんけい》や、病気や、身分《みぶん》を一纏《ひとまとめ》にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。

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