2008年11月14日金曜日

三の二

 代助の尤《もつと》も応《こた》へるのは親爺《おやぢ》である。好《い》い年《とし》をして、若《わか》い妾《めかけ》を持《も》つてゐるが、それは構《かま》はない。代助から云《い》ふと寧ろ賛成な位なもので、彼《かれ》は妾《めかけ》を置く余裕のないものに限《かぎ》つて、蓄妾《ちくしよう》の攻撃をするんだと考へてゐる。親爺《おやぢ》は又|大分《だいぶ》の八釜《やかま》し屋《や》である。小供のうちは心魂《しんこん》に徹《てつ》して困却した事がある。しかし成人《せいじん》の今日《こんにち》では、それにも別段辟易する必要を認《みと》めない。たゞ応《こた》へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共|大《たい》した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に処《しよ》した時の心掛《こゝろが》けでもつて、代助も遣《や》らなくつては、嘘《うそ》だといふ論理になる。尤も代助の方では、何《なに》が嘘《うそ》ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分|親爺《おやぢ》と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと已《や》んで仕舞つた。それから以後ついぞ怒《おこ》つた試《ため》しがない。親爺《おやぢ》はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに誇《ほこ》つてゐる。
 実際を云ふと親爺《おやぢ》の所謂薫育は、此父子の間《あひだ》に纏綿する暖《あたゝ》かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が親爺《おやぢ》の腹のなかでは、それが全く反対《あべこべ》に解釈されて仕舞つた。何《なに》をしやうと血肉《けつにく》の親子《おやこ》である。子が親《おや》に対する天賦の情|合《あひ》が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る筈《はづ》がない。教育の為《た》め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた親爺《おやぢ》は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた親爺《おやぢ》は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の息子《むすこ》を作り上《あ》げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて来《き》て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が生《うま》れ落ちるや否や、此|親爺《おやぢ》が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
 親爺《おやぢ》は戦争に出《で》たのを頗る自慢にする。稍《やゝ》もすると、御|前《まへ》抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が据《すわ》らなくつて不可《いか》んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が人間《にんげん》至上な能力であるかの如き言草《いひぐさ》である。代助はこれを聞《き》かせられるたんびに厭《いや》な心持がする。胆力は命《いのち》の遣《や》り取《と》りの劇《はげ》しい、親爺《おやぢ》の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の類《たぐひ》と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。御父《おとう》さんから又胆力の講釈を聞いた。御父《おとう》さんの様に云ふと、世の中《なか》で石地蔵が一番|偉《えら》いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、嫂《あによめ》と笑つた事がある。
 斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は心《しん》から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、親爺《おやぢ》の使嗾で、夜中《よなか》にわざ/\青山《あをやま》の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして家《うち》へ帰つて来《き》た。其折は自分でも残念に思つた。あくる朝《あさ》親爺《おやぢ》に笑はれたときは、親爺《おやぢ》が憎《にく》らしかつた。親爺《おやぢ》の云ふ所によると、彼《かれ》と同時代の少年は、胆力修養の為《た》め、夜半《やはん》に結束《けつそく》して、たつた一人《ひとり》、御|城《しろ》の北《きた》一里にある剣《つるぎ》が峰《みね》の天頂《てつぺん》迄|登《のぼ》つて、其所《そこ》の辻堂で夜明《よあかし》をして、日の出《で》を拝《おが》んで帰《かへ》つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得|方《かた》からして違ふと親爺が批評した。
 斯んな事を真面目《まじめ》に口《くち》にした、又今でも口《くち》にしかねまじき親爺《おやぢ》は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が嫌《きらひ》である。瞬間の動揺でも胸《むね》に波《なみ》が打《う》つ。あるときは書斎で凝《じつ》と坐《すは》つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて来《く》るなと感ずる事がある。すると、尻の下に敷《し》いてゐる坐蒲団も、畳《たゝみ》も、乃至|床《ゆか》板も明らかに震《ふる》へる様に思はれる。彼《かれ》はこれが自分の本来だと信じてゐる。親爺《おやぢ》の如きは、神経|未熟《みじゆく》の野人か、然らずんば己《おの》れを偽《いつ》はる愚者としか代助には受け取れないのである。

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