2008年11月13日木曜日

六の五

 三千代《みちよ》は小供《こども》の着物《きもの》を膝の上《うへ》に乗《の》せた儘、返事もせずしばらく俯向《うつむ》いて眺めてゐたが、
「貴方《あなた》のと同《おんな》じに拵《こしら》へたのよ」と云つて夫《おつと》の方を見た。
「是《これ》か」
 平岡は絣《かすり》の袷《あはせ》の下《した》へ、ネルを重《かさ》ねて、素肌《すはだ》に着《き》てゐた。
「是《これ》はもう不可《いか》ん。暑《あつ》くて駄目《だめ》だ」
 代助は始《はじ》めて、昔《むかし》の平岡《ひらをか》を当面《まのあたり》に見《み》た。
「袷《あはせ》の下《した》にネルを重《かさ》ねちやもう暑《あつ》い。繻絆にすると可《い》い」
「うん、面倒だから着《き》てゐるが」
「洗濯をするから御|脱《ぬ》ぎなさいと云つても、中々《なか/\》脱《ぬ》がないのよ」
「いや、もう脱《ぬ》ぐ、己《おれ》も少々|厭《いや》になつた」
 話《はなし》は死《し》んだ小供《こども》の事をとう/\離《はな》れて仕舞つた。さうして、来《き》た時よりは幾分か空気に暖味《あたゝかみ》が出来《でき》た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出《だ》した。三千代《みちよ》も支度《したく》をするから、緩《ゆつく》りして行《い》つて呉《く》れと頼《たの》む様に留《と》めて、次《つぎ》の間《ま》へ立《た》つた。代助は其|後姿《うしろすがた》を見て、どうかして金《かね》を拵《こしら》へてやりたいと思つた。
「君|何所《どこ》か奉公|口《ぐち》の見当は付《つ》いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無《な》い様なもんだ。無《な》ければ当分|遊《あそ》ぶ丈の事だ。緩《ゆつ》くり探《さが》してゐるうちには何《ど》うかなるだらう」
 云ふ事は落ち付《つ》いてゐるが、代助が聞《き》くと却つて焦《あせ》つて探《さが》してゐる様にしか取れない。代助は、昨日《きのふ》兄《あに》と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構《かま》へてゐる向ふの体面を、わざと此方《こつち》から毀損する様な気がしたからである。其上《そのうへ》金《かね》の事に付《つ》いては平岡からはまだ一言《いちげん》の相談も受けた事もない。だから表向《おもてむき》挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯《か》うして黙《だま》つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴《やつ》だと悪《わる》く思はれるに極《きま》つてゐる。けれども今《いま》の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間《にんげん》ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回《まは》してゐた。渡金《めつき》を金《きん》に通用させ様とする切《せつ》ない工面より、真鍮を真鍮で通《とほ》して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽《らく》である。と今は考へてゐる。
 代助が真鍮を以て甘《あま》んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来《き》たしたといふ様な、小説じみた歴史を有《も》つてゐる為《ため》ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金《めつき》を自分で剥がして来《き》たに過《す》ぎない。代助は此|渡金《めつき》の大半をもつて、親爺《おやぢ》が捺摺《なす》り付けたものと信じてゐる。其|時分《じぶん》は親爺《おやぢ》が金《きん》に見えた。多くの先輩が金《きん》に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金《きん》に見えた。だから自分の渡金《めつき》が辛《つら》かつた。早く金《きん》になりたいと焦《あせ》つて見た。所が、他《ほか》のものゝ地金《ぢがね》へ、自分の眼光がぢかに打《ぶ》つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出《だ》した。
 代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄《あに》と喧嘩をしても、父《ちゝ》と口論をしても、平岡の為《ため》に計つたらう、又其|計《はか》つた通りを平岡の所へ来《き》て事々《こと/″\》しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
 それで肝心の話は一二言で已《や》めて、あとは色々な雑談に時を過《す》ごすうちに酒が出《で》た。三千代が徳利の尻《しり》を持つて御酌をした。

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