2008年11月12日水曜日

十三の四

 代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねて見た。三千代は例によつて多くを語る事を好《この》まなかつた。然し平岡の妻に対する仕打《しうち》が結婚当時と変つてゐるのは明《あきら》かであつた。代助は夫婦が東京へ帰つた当時|既《すで》にそれを見抜いた。夫《それ》から以後|改《あらた》まつて両人《ふたり》の腹《はら》の中《なか》を聞いた事《こと》はないが、それが日毎に好《よ》くない方に、速度を加へて進行しつゝあるのは殆んど争ふべからざる事実と見えた。夫婦の間《あひだ》に、代助と云ふ第三者が点ぜられたがために、此|疎隔《そかく》が起つたとすれば、代助は此方面に向つて、もつと注意深く働らいたかも知れなかつた。けれども代助は自己の悟性に訴へて、さうは信ずる事が出来なかつた。彼は此結果の一部分を三千代の病気に帰した。さうして、肉体上の関係が、夫《おつと》の精神に反響を与へたものと断定した。又其一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒から生じた経済事状に帰した。凡てを概括した上《うへ》で、平岡は貰《もら》ふべからざる人《ひと》を貰《もら》ひ、三千代は嫁《とつ》ぐ可《べ》からざる人《ひと》に嫁《とつ》いだのだと解決した。代助は心の中《うち》で痛《いた》く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の為《ため》に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動《うご》かすが為《ため》に、平岡が妻《さい》から離れたとは、何《ど》うしても思ひ得なかつた。
 同時に代助の三千代に対する愛情は、此夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつゝある事もまた一方では否《いな》み切れなかつた。三千代が平岡に嫁《とつ》ぐ前《まへ》、代助と三千代の間柄《あひだがら》は、どの位の程度迄進んでゐたかは、しばらく措《お》くとしても、彼《かれ》は現在の三千代には決して無頓着でゐる訳には行かなかつた。彼は病気に冒された三千代をたゞの昔《むかし》の三千代よりは気の毒に思つた。彼は小供を亡《な》くなした三千代をたゞの昔《むかし》の三千代よりは気の毒に思つた。彼は夫《おつと》の愛を失ひつゝある三千代をたゞの昔《むかし》の三千代よりは気の毒に思つた。彼《かれ》は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの昔《むかし》の三千代よりは気の毒に思つた。但し、代助は此夫婦の間《あひだ》を、正面から永久に引き放《はな》さうと試みる程大胆ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。
 三千代の眼《ま》のあたり、苦しんでゐるのは経済問題であつた。平岡が自力で給し得る丈の生活費を勝手の方へ回《まは》さない事は、三千代の口吻で慥《たしか》であつた。代助は此点丈でもまづ何《ど》うかしなければなるまいと考へた。それで、
「一《ひと》つ私《わたし》が平岡君に逢《あ》つて、能く話して見やう」と云つた。三千代は淋しい顔《かほ》をして代助を見た。旨《うま》く行けば結構だが、遣《や》り損《そく》なへば益三千代の迷惑になる許《ばかり》だとは代助も承知してゐたので、強ひて左様《さう》しやうとも主張しかねた。三千代は又立つて次《つぎ》の間《ま》から一封《いつぷう》の書状を持《も》つて来《き》た。書状は薄青《うすあを》い状袋へ這入つてゐた。北海道にゐる父《ちゝ》から三千代へ宛《あて》たものであつた。三千代は状袋の中《なか》から長い手紙を出《だ》して、代助に見せた。
 手紙には向《むか》ふの思はしくない事や、物価の高くて活計《くらし》にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出《で》たいが都合はつくまいかと云ふ事や、――凡て憐れな事ばかり書《か》いてあつた。代助は叮嚀に手紙を巻《ま》き返して、三千代に渡《わた》した。其時三千代は眼《め》の中《なか》に涙《なみだ》を溜《た》めてゐた。
 三千代の父はかつて多少の財産と称《とな》へらるべき田畠の所有者であつた。日露戦争の当時、人の勧《すゝめ》に応じて、株に手を出して全く遣《や》り損《そく》なつてから、潔よく祖先の地を売り払つて、北海道へ渡つたのである。其後《そのご》の消息は、代助も今《いま》此手紙を見せられる迄一向知らなかつた。親類はあれども無《な》きが如しだとは三千代の兄《あに》が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。果《はた》して三千代は、父《ちゝ》と平岡ばかりを便《たより》に生きてゐた。
「貴方《あなた》は羨《うらや》ましいのね」と瞬《またゝ》きながら云つた。代助はそれを否定する勇気に乏しかつた。しばらくしてから又、
「何《なん》だつて、まだ奥《おく》さんを御貰《おもら》ひなさらないの」と聞いた。代助は此|問《とひ》にも答へる事が出|来《き》なかつた。

0 件のコメント: