2008年11月12日水曜日

十二の三

 代助は其|夜《よ》九時頃平岡の家《いへ》を辞《じ》した。辞《じ》する前《まへ》、自分の紙入《かみいれ》の中《なか》に有《あ》るものを出《だ》して、三千代に渡《わた》した。其時は、腹《はら》の中《なか》で多少の工夫《くふう》を費《つい》やした。彼《かれ》は先《ま》づ何気《なにげ》なく懐中物《くわいちうもの》を胸《むね》の所《ところ》で開《あ》けて、中《なか》にある紙幣を、勘定もせずに攫《つか》んで、是《これ》を上《あ》げるから御使《おつかひ》なさいと無雑作に三千代の前《まへ》へ出《だ》した。三千代は、下女を憚《はゞ》かる様な低い声で、
「そんな事を」と、却《かへ》つて両手をぴたりと身体《からだ》へ付《つ》けて仕舞つた。代助は然し自分の手を引《ひ》き込《こ》めなかつた。
「指環を受取《うけと》るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環《ゆびわ》だと思つて御貰ひなさい」
 代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、余《あんま》りだからとまだ※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇した。代助は、平岡に知れると叱《しか》られるのかと聞いた。三千代は叱《しか》られるか、賞《ほ》められるか、明《あき》らかに分《わか》らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた。代助は、叱《しか》られるなら、平岡に黙《だま》つてゐたら可《よ》からうと注意した。三千代はまだ手を出《だ》さなかつた。代助は無論|出《だ》したものを引き込《こ》める訳《わけ》に行《い》かなかつた。已《やむ》を得ず、少《すこ》し及び腰《ごし》になつて、掌《てのひら》を三千代の胸《むね》の傍《そば》迄|持《も》つて行《い》つた。同時に自分の顔《かほ》も一尺|許《ばかり》の距離に近寄《ちかよ》せて、
「大丈夫だから、御取《おと》んなさい」と確《しつか》りした低《ひく》い調子で云つた。三千代は顎《あご》を襟《えり》の中《なか》へ埋《うづ》める様に後《あと》へ引いて、無言の儘右の手を前へ出《だ》した。紙幣は其|上《うへ》に落ちた。其時三千代は長い睫毛《まつげ》を二三度打ち合はした。さうして、掌《てのひら》に落ちたものを帯《おび》の間《あひだ》に挟《はさ》んだ。
「又|来《く》る。平岡君によろしく」と云つて、代助は表《おもて》へ出《で》た。町《まち》を横断して小路《こうぢ》へ下《くだ》ると、あたりは暗くなつた。代助は美《うつ》くしい夢《ゆめ》を見た様に、暗《くら》い夜《よ》を切《き》つて歩《ある》いた。彼は三十分と立たないうちに、吾家《わがいへ》の門前《もんぜん》に来《き》た。けれども門《もん》を潜《くゞ》る気がしなかつた。彼《かれ》は高い星《ほし》を戴《いたゞ》いて、静《しづ》かな屋敷町《やしきまち》をぐる/\徘徊した。自分では、夜半迄|歩《ある》きつゞけても疲《つか》れる事はなからうと思つた。兎角《とかく》するうち、又自分の家《いへ》の前へ出《で》た。中《なか》は静《しづ》かであつた。門野《かどの》と婆《ばあ》さんは茶の間《ま》で世間話《せけんばなし》をしてゐたらしい。
「大変|遅《おそ》うがしたな。明日《あした》は何時《なんじ》の汽車で御|立《た》ちですか」と玄関へ上《あが》るや否《いな》や問《とひ》を掛《か》けた。代助は、微笑しながら、
「明日《あした》も御|已《や》めだ」と答《こた》へて、自分の室《へや》へ這入《はい》つた。そこには床《とこ》がもう敷《し》いてあつた。代助は先刻《さつき》栓《せん》を抜《ぬ》いた香水を取つて、括枕《くゝりまくら》の上《うへ》に一滴《いつてき》垂《た》らした。夫《それ》では何だか物足《ものた》りなかつた。壜《びん》を持《も》つた儘《まゝ》、立《た》つて室《へや》の四隅《よすみ》へ行《い》つて、そこに一二滴づゝ振《ふ》りかけた。斯様《かやう》に打《う》ち興《きよう》じた後《あと》、白地《しろぢ》の浴衣《ゆかた》に着換《きか》えて、新《あた》らしい小|掻巻《かいまき》の下《した》に安《やすら》かな手足《てあし》を横《よこ》たへた。さうして、薔薇《ばら》の香《か》のする眠《ねむり》に就《つ》いた。
 眼《め》が覚《さ》めた時は、高い日《ひ》が椽に黄|金色《ごんしよく》の震動を射込んでゐた。枕元《まくらもと》には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が何時《いつ》、雨戸を引《ひ》いて、何時《いつ》新聞を持《も》つて来《き》たか、丸《まる》で知らなかつた。代助は長《なが》い伸《のび》を一つして起《お》き上《あが》つた。風呂場で身体《からだ》を拭《ふ》いてゐると、門野《かどの》が少《すこ》し狼狽《うろた》へた容子で遣《や》つて来《き》て、
「青山《あをやま》から御兄《おあに》いさんが御見えになりました」と云つた。代助は今直《いますぐ》行《ゆ》く旨《むね》を答へて、奇麗に身体《からだ》を拭《ふ》き取《と》つた。座敷はまだ掃除が出来てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び出《だ》す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪《かみ》を分けて剃《そり》を中《あて》て、悠々と茶の間へ帰《かへ》つた。そこでは流石《さすが》にゆつくりと膳につく気も出《で》なかつた。立ちながら紅茶を一杯|啜《すゝ》つて、タヱルで一寸《ちよつと》口髭《くちひげ》を摩《こす》つて、それを、其所《そこ》へ放り出すと、すぐ客間へ出《で》て、
「やあ兄《にい》さん」と挨拶をした。兄《あに》は例《れい》の如《ごと》く、色《いろ》の濃《こ》い葉巻《はまき》の、火《ひ》の消えたのを、指《ゆび》の股《また》に挟《はさ》んで、平然として代助の新聞を読《よ》んでゐた。代助の顔《かほ》を見るや否や、
「此室《このへや》は大変|好《い》い香《にほひ》がする様だが、御前《おまへ》の頭《あたま》かい」と聞いた。
「僕《ぼく》の頭《あたま》の見える前《まへ》からでせう」と答《こた》へて、昨夜《ゆふべ》の香水の事を話《はな》した。兄《あに》は、落ち付いて、
「はゝあ、大分|洒落《しやれ》た事をやるな」と云つた。

0 件のコメント: