2008年11月13日木曜日

七の三

 けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗《あら》ひ浚《ざら》い※[#「口+堯」、112-13]舌《しやべ》り散《ち》らす女ではなし、よしんば何《ど》うして、そんな金《かね》が要《い》る様になつたかの事情を、詳しく聞《き》き得たにした所で、夫婦《ふうふ》の腹《はら》の中《なか》なんぞは容易に探《さぐ》られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼《かれ》の本当に知りたい点は、却つて此所《こゝ》に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故《なにゆへ》に金《かね》が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞《き》かなくつても、三千代に金《かね》を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金《かね》を拵《こしら》へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有《も》つてゐなかつたのである。
 其上《そのうへ》平岡の留守へ行き中《あ》てゝ、今日《こんにち》迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家《うち》にゐる以上は、詳しい話《はなし》の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄|真《ま》に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄《みえ》を張つてゐる。見栄《みえ》の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
 代助は、兎も角もまづ嫂《あによめ》に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄|嫂《あによめ》にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯《か》う短兵急に痛《いた》め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持《も》つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫《それ》で駄目なら、又高利でも借《か》りるのだが、代助はまだ其所《そこ》迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層《いつそ》此方《こつち》から進んで、直接に三千代《みちよ》を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭《あたま》の中《なか》に潜《ひそ》んでゐた。
 生暖《なまあたゝ》かい風《かぜ》の吹《ふ》く日であつた。曇《くも》つた天気が何時迄《いつまで》も無精《ぶせう》に空《そら》に引掛《ひつかゝ》つて、中々《なか/\》暮《く》れさうにない四時過から家《うち》を出《で》て、兄《あに》の宅迄《たくまで》電車で行つた。青山《あをやま》御所の少《すこ》し手前迄|来《く》ると、電車の左側《ひだりがは》を父《ちゝ》と兄《あに》が綱曳《つなびき》で急《いそ》がして通《とほ》つた。挨拶《あいさつ》をする暇《ひま》もないうちに擦《す》れ違《ちが》つたから、向ふは元より気が付《つ》かずに過《す》ぎ去つた。代助は次《つぎ》の停留所で下《お》りた。
 兄《あに》の家《いへ》の門を這入ると、客間《きやくま》でピアノの音《おと》がした。代助は一寸《ちよつと》砂利の上《うへ》に立ち留《どま》つたが、すぐ左へ切れて勝手|口《ぐち》の方へ廻つた。其所《そこ》には格子の外《そと》に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口《くち》を革|紐《ひも》で縛《しば》られて臥《ね》てゐた。代助の足音を聞《き》くや否や、ヘクターは毛の長い耳《みゝ》を振《ふる》つて、斑《まだら》な顔《かほ》を急に上《あ》げた。さうして尾を揺《うご》かした。
 入口《いりぐち》の書生部屋を覗き込んで、敷居の上《うへ》に立ちながら、二言三言《ふたことみこと》愛嬌を云つた後《あと》、すぐ西洋|間《ま》の方へ来《き》て、戸《と》を明《あ》けると、嫂《あによめ》がピヤノの前に腰を掛けて両手を動《うご》かして居た。其傍《そのそば》に縫《ぬひ》子が袖《そで》の長い着物を着《き》て、例の髪《かみ》を肩迄掛けて立《た》つてゐた。代助は縫《ぬひ》子の髪《かみ》を見るたんびに、ブランコに乗《の》つた縫子の姿《すがた》を思ひ出《だ》す。黒《くろ》い髪《かみ》と、淡紅色《ときいろ》のリボンと、それから黄色い縮緬《ちりめん》の帯が、一時《いちじ》に風に吹かれて空《くう》に流れる様《さま》を、鮮《あざや》かに頭《あたま》の中《なか》に刻み込んでゐる。
 母子《おやこ》は同時に振《ふ》り向いた。
「おや」
 縫子の方は、黙《だま》つて馳《か》けて来《き》た。さうして、代助の手をぐい/\引張《ひつぱ》つた。代助はピヤノの傍《そば》迄|来《き》た。
「如何なる名人が鳴《な》らしてゐるのかと思つた」
 梅子は何にも云はずに、額《ひたい》に八の字を寄《よ》せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向《むか》ふから斯《か》う云つた。
「代さん、此所《こゝ》ん所《ところ》を一寸《ちよつと》遣《や》つて見《み》せて下《くだ》さい」
 代助は黙《だま》つて嫂《あによめ》と入れ替《かは》つた。譜《ふ》を見ながら、両方の指《ゆび》をしばらく奇麗に働《はたら》かした後《あと》、
「斯《か》うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。

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