2008年11月12日水曜日

十五の二

 帰る途中《とちう》も不愉快で堪《たま》らなかつた。此間《このあひだ》三千代に逢《あ》つて以後、味はう事を知つた心の平和を、父《ちゝ》や嫂《あによめ》の態度で幾分か破壊されたと云ふ心持が路々《みち/\》募つた。自分は自分の思ふ通りを父《ちゝ》に告《つ》げる、父《ちゝ》は父《ちゝ》の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の予期であつた。父《ちゝ》の仕打《しうち》は彼《かれ》の予期以外に面白くないものであつた。其仕打は父《ちゝ》の人格を反射する丈夫丈多く代助を不愉快にした。
 代助は途《みち》すがら、何《なに》を苦《くるし》んで、父《ちゝ》との会見を左迄に急いだものかと思ひ出《だ》した。元来が父《ちゝ》の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける父《ちゝ》の方にあるべき筈であつた。其|父《ちゝ》がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を延《の》ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云ふ不結果を生ずる外に何《なに》も起り様がない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に片付《かたづ》けて仕舞つた積《つもり》でゐた。彼は父《ちゝ》から時日を指定して呼び出《だ》される迄は、宅《うち》の方の所置を其儘にして放つて置く事に極めた。
 彼は家《いへ》に帰つた。父《ちゝ》に対しては只|薄暗《うすぐら》い不愉快の影《かげ》が頭《あたま》に残つてゐた。けれども此影は近き未来に於て必ず其|暗《くら》さを増してくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に捲《ま》き込むべき凄《すさま》じいものであつた。代助は此間《このあひだ》三千代に逢《あ》つたなりで、片片《かたかた》の方は捨てゝある。よし是《これ》から三千代の顔《かほ》を見るにした所で、――また長い間《あひだ》見ずにゐる気はなかつたが、――二人《ふたり》の向後取るべき方針に就て云へば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかつた。此点に関して、代助は我ながら明瞭な計画を拵《こしら》えてゐなかつた。平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はたゞ何時《いつ》、何事《なにごと》にでも用意ありと云ふ丈であつた。無論彼は機《き》を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具体的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して仕損《しそん》じまいと誓つたのは、凡てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。従つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒《くろ》く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい暴風《あらし》の中《なか》から、如何にして三千代を救《すく》ひ得べきかの問題であつた。
 最後に彼の周囲を人間のあらん限《かぎ》り包《つゝ》む社会に対しては、彼は何の考も纏めなかつた。事実として、社会は制裁の権を有してゐた。けれども動機行為の権は全く自己の天分から湧いて出《で》るより外に道はないと信じた。かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた。
 代助は彼《かれ》の小《ちい》さな世界の中心に立つて、彼《かれ》の世界を斯様に観て、一順其関係比例を頭《あたま》の中で調べた上、
「善《よ》からう」と云つて、又|家《いへ》を出た。さうして一二丁|歩《ある》いて、乗り付《つ》けの帳場迄|来《き》て、奇麗で早《はや》さうな奴《やつ》を択んで飛び乗《の》つた。何処《どこ》へ行く当《あて》もないのを好加減な町を名指《なざ》して二時間程ぐる/\乗り廻《まは》して帰《かへ》つた。
 翌日も書斎の中《なか》で前日同様、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一応|隈《くま》なく見渡した後《あと》、
「宜《よろ》しい」と云つて外《そと》へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶら/\歩《ある》いて帰つた。
 三日目にも同じ事を繰《く》り返した。が、今度は表へ出《で》るや否や、すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ来《き》た。三千代は二人《ふたり》の間《あひだ》に何事も起《おこ》らなかつたかの様に、
「何故《なぜ》夫《それ》から入らつしやらなかつたの」と聞《き》いた。代助は寧ろ其落ち付き払《はら》つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し遣《や》つて、
「何《なん》でそんなに、そわ/\して居《ゐ》らつしやるの」と無理に其上《そのうへ》に坐《すは》らした。
 一時間ばかり話してゐるうちに、代助の頭《あたま》は次第に穏《おだ》やかになつた。車《くるま》へ乗つて、当《あて》もなく乗り回《まは》すより、三十分でも好《い》いから、早く此所《こゝ》へ遊びに来《く》れば可《よ》かつたと思ひ出した。帰るとき代助は、
「又|来《き》ます。大丈夫だから安心して入《い》らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた。

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