2008年11月13日木曜日

十の一

 蟻《あり》の座敷《ざしき》へ上《あ》がる時候になつた。代助は大きな鉢《はち》へ水を張《は》つて、其|中《なか》に真白《まつしろ》なリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]レーを茎《くき》ごと漬《つ》けた。簇《むら》がる細《こま》かい花が、濃《こ》い模様の縁《ふち》を隠《かく》した。鉢《はち》を動《うご》かすと、花《はな》が零《こぼ》れる。代助はそれを大《おほ》きな字引《じびき》の上《うへ》に載《の》せた。さうして、其|傍《そば》に枕《まくら》を置《お》いて仰向《あほむ》けに倒れた。黒《くろ》い頭《あたま》が丁度|鉢《はち》の陰《かげ》になつて、花から出《で》る香《にほひ》が、好《い》い具合に鼻《はな》に通《かよ》つた。代助は其香《そのにほひ》を嗅《か》ぎながら仮寐《うたゝね》をした。
 代助は時々《とき/″\》尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇《はげ》しくなると、晴天から来《く》る日光《につこう》の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る可《べ》く世間《せけん》との交渉を稀薄にして、朝《あさ》でも午《ひる》でも構はず寐《ね》る工夫をした。其手段には、極めて淡《あわ》い、甘味《あまみ》の軽《かる》い、花《はな》の香《か》をよく用ひた。瞼《まぶた》を閉《と》ぢて、瞳《ひとみ》に落《お》ちる光線を謝絶して、静かに鼻《はな》の穴《あな》丈で呼吸《こきう》してゐるうちに、枕元《まくらもと》の花《はな》が、次第に夢《ゆめ》の方《ほう》へ、躁《さわ》ぐ意識を吹《ふ》いて行く。是が成功すると、代助の神経が生《うま》れ代《かは》つた様に落ち付いて、世間《せけん》との連絡《れんらく》が、前よりは比較的|楽《らく》に取れる。
 代助は父《ちゝ》に呼《よ》ばれてから二三日の間《あひだ》、庭《には》の隅《すみ》に咲いた薔薇《ばら》の花《はな》の赤《あか》いのを見るたびに、それが点々《てん/\》として眼《め》を刺《さ》してならなかつた。其時は、いつでも、手水鉢《てみづばち》の傍《そば》にある、擬宝珠《ぎぼしゆ》の葉《は》に眼《め》を移《うつ》した。其|葉《は》には、放肆《ほうし》な白《しろ》い縞《しま》が、三筋《みすぢ》か四筋《よすぢ》、長《なが》く乱《みだ》れてゐた。代助が見るたびに、擬宝珠《ぎぼしゆ》の葉《は》は延《の》びて行く様に思はれた。さうして、それと共に白《しろ》い縞《しま》も、自由に拘束なく、延《の》びる様な気がした。柘榴《ざくろ》の花《はな》は、薔薇《ばら》よりも派出《はで》に且つ重苦《おもくる》しく見えた。緑《みどり》の間《あひだ》にちらり/\と光《ひか》つて見える位、強い色を出《だ》してゐた。従つて是《これ》も代助の今の気分には相応《うつ》らなかつた。
 彼の今《いま》の気分は、彼に時々《とき/″\》起《おこ》る如《ごと》く、総体の上《うへ》に一種の暗調を帯びてゐた。だから余《あま》りに明《あか》る過《すぎ》るものに接すると、其矛盾に堪えがたかつた。擬宝珠《ぎぼしゆ》の葉《は》も長く見詰めてゐると、すぐ厭《いや》になる位であつた。
 其上《そのうへ》彼《かれ》は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ出《だ》した。其不安は人と人との間《あひだ》に信仰がない源因から起《おこ》る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神《かみ》に信仰を置く事を喜《よろこ》ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質《たち》であつた。けれども、相互《さうご》に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを解脱《げだつ》する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、神《かみ》のある国では、人が嘘《うそ》を吐《つ》くものと極《き》めた。然し今の日本は、神《かみ》にも人《ひと》にも信仰のない国柄《くにがら》であるといふ事を発見した。さうして、彼《かれ》は之を一《いつ》に日本の経済事情に帰着せしめた。
 四五日前、彼は掏摸《すり》と結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人《ひとり》や二人《ふたり》ではなかつた。他の新聞の記《しる》す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥《おちい》るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
 代助が父に逢《あ》つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父《ちゝ》に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父《ちゝ》を尤もだと肯《うけが》ふ積りだつたからである。
 代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好《す》く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有《も》ち得なかつた。嫂《あによめ》は実意のある女であつた。然し嫂《あによめ》は、直接生活の難関に当《あた》らない丈、それ丈|兄《あに》よりも近付き易《やす》いのだと考へてゐた。
 代助は平生から、此位に世の中《なか》を打遣《うちや》つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。夫《それ》が、何《ど》う云ふ具合か急に揺《うご》き出《だ》した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと察《さつ》した。そこである人が北海道から採《と》つて来《き》たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]レーの束《たば》を解《と》いて、それを悉く水《みづ》の中《なか》に浸《ひた》して、其下《そのした》に寐《ね》たのである。

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