2008年11月12日水曜日

十六の二

 中二日《なかふつか》置《お》いて三千代が来《く》る迄、代助の頭《あたま》は何等の新《あたら》しい路《みち》を開拓し得なかつた。彼《かれ》の頭《あたま》の中《なか》には職業の二字が大きな楷書《かいしよ》で焼き付《つ》けられてゐた。それを押《お》し退《の》けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り狂《くる》つた。それが影を隠《かく》すと、三千代の未来が凄《すさま》じく荒れた。彼《かれ》の頭《あたま》には不安の旋風《つむじ》が吹き込んだ。三つのものが巴《ともえ》の如く瞬時の休《やす》みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。彼《かれ》は船《ふね》に乗つた人《ひと》と一般であつた。回転する頭《あたま》と、回転する世界の中《なか》に、依然として落ち付いてゐた。
 青山《あをやま》の宅《うち》からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は力《つと》めて門野を相手にして他愛ない雑談に耽《ふけ》つた。門野は此暑さに自分の身体《からだ》を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り口《くち》を動《うご》かした。それでも話し草臥《くたび》れると、
「先生、将棋は何《ど》うです」抔と持ち掛けた。夕方《ゆふがた》には庭《には》に水を打《う》つた。二人《ふたり》共|跣足《はだし》になつて、手桶を一杯|宛《づゝ》持《も》つて、無分別に其所等《そこいら》を濡《ぬ》らして歩《ある》いた。門野《かどの》が隣《となり》の梧桐の天辺《てつぺん》迄|水《みづ》にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り上《あ》げる拍子に、滑《すべ》つて尻持を突《つ》いた。白粉草《おしろいそう》が垣根の傍《そば》で花を着けた。手水鉢の蔭《かげ》に生《は》えた秋海棠の葉が著《いちゞ》るしく大きくなつた。梅雨《つゆ》は漸く晴れて、昼は雲《くも》の峰《みね》の世界となつた。強い日《ひ》は大きな空《そら》を透《す》き通《とほ》す程焼いて、空《そら》一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
 代助は夜《よ》に入つて頭《あたま》の上《うへ》の星ばかり眺《なが》めてゐた。朝《あさ》は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が聞《きこ》える様になつた。風呂場へ行つて、度々《たび/\》頭《あたま》を冷《ひや》した。すると門野がもう好《い》い時分だと思つて、
「何《ど》うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて来《き》た。代助は斯《か》う云ふ上《うは》の空《そら》の生活を二日程|送《おく》つた。三日目の日盛《ひざかり》に、彼は書斎の中《なか》から、ぎら/\する空《そら》の色《いろ》を見詰《みつ》めて、上《うへ》から吐《は》き下《おろ》す焔《ほのほ》の息《いき》を嗅《か》いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは彼《かれ》の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた為《ため》であつた。
 三千代は此暑《このあつさ》を冒《おか》して前日《ぜんじつ》の約《やく》を履《ふ》んだ。代助は女の声《こえ》を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び出《だ》した。三千代は傘《かさ》をつぼめて、風呂敷|包《づゝみ》を抱へて、格子の外《そと》に立《た》つてゐた。不断着《ふだんぎ》の儘《まゝ》宅《うち》を出《で》たと見えて、質素《しつそ》な白地《しろぢ》の浴衣《ゆかた》の袂《たもと》から手帛《はんけち》を出し掛《か》けた所であつた。代助は其姿《そのすがた》を一目《ひとめ》見た時、運命が三千代の未来を切り抜《ぬ》いて、意地悪く自分の眼の前に持つて来《き》た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「馳落《かけおち》でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は穏《おだや》かに、
「でも買物をした序でないと上《あが》り悪《にく》いから」と真面目な答をして、代助の後《あと》に跟《つ》いて奥迄這入つて来《き》た。代助はすぐ団扇を出《だ》した。照り付けられた所為《せゐ》で三千代の頬《ほゝ》が心持よく輝《かゞ》やいた。何時《いつ》もの疲《つか》れた色は何処《どこ》にも見えなかつた。眼《め》の中《なか》にも若《わか》い沢《つや》が宿《やど》つてゐた。代助は生々《いき/\》した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の裡《うち》に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ出《だ》したら悲《かな》しくなつた。彼は今日《けふ》も此|美《うつ》くしさの一部分を曇らす為《ため》に三千代を呼んだに違《ちがひ》なかつた。
 代助は幾|度《たび》か己れを語る事を※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉《まゆ》一筋《ひとすぢ》にしろ心配の為《ため》に動《うご》かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭《する》どく働らいてゐなかつたなら、彼は夫《それ》から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ室《へや》のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の下《もと》に、一切《いつさい》を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
 代助は漸くにして思ひ切つた。
「其後《そのご》貴方《あなた》と平岡との関係は別に変りはありませんか」
 三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。
「あつたつて、構《かま》はないわ」
「貴方《あなた》は夫程僕を信用してゐるんですか」
「信用してゐなくつちや、斯《か》うして居られないぢやありませんか」
 代助は目映《まぼ》しさうに、熱《あつ》い鏡《かゞみ》の様な遠い空《そら》を眺《なが》めた。

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