2008年11月12日水曜日

十四の七

 雨《あめ》は翌日《よくじつ》迄|晴《は》れなかつた。代助は湿《しめ》つぽい椽側に立《た》つて、暗《くら》い空模様《そらもやう》を眺《なが》めて、昨夕《ゆふべ》の計画を又|変《か》えた。彼《かれ》は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已《や》むなくんば、蒼《あを》い空《そら》の下《した》と思つてゐたが、此天気では夫《それ》も覚束なかつた。と云つて、平岡の家《いへ》へ出向《でむ》く気は始めから無《な》かつた。彼は何《ど》うしても、三千代を自分の宅《うち》へ連《つ》れて来《く》るより外《ほか》に道はないと極《き》めた。門野《かどの》が少し邪魔になるが、話《はなし》のし具合では書生部屋に洩れない様にも出来《でき》ると考へた。
 午《ひる》少《すこ》し前《まへ》迄は、ぼんやり雨《あめ》を眺《なが》めてゐた。午飯《ひるめし》を済《す》ますや否や、護謨《ごむ》の合羽《かつぱ》を引き掛けて表へ出た。降《ふ》る中《なか》を神楽坂下《かぐらざかした》迄|来《き》て青山《あをやま》の宅《うち》へ電話を掛《か》けた。明日《あす》此方《こつち》から行く積《つもり》であるからと、機先《きせん》を制して置《お》いた。電話|口《ぐち》へは嫂《あによめ》が現《あらは》れた。先達《せんだつ》ての事は、まだ父《ちゝ》に話《はな》さないでゐるから、もう一遍よく考《かんが》へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に号鈴《ベル》を鳴《な》らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼《かれ》の出社の有無を確《たしか》めた。平岡は社《しや》に出《で》てゐると云ふ返事を得た。代助は雨《あめ》を衝《つ》いて又|坂《さか》を上《のぼ》つた。花屋《はなや》へ這入つて、大きな白百合《しろゆり》の花《はな》を沢山|買《か》つて、夫《それ》を提《さ》げて、宅《うち》へ帰《かへ》つた。花《はな》は濡《ぬ》れた儘、二《ふた》つの花瓶《くわへい》に分《わ》けて挿《さ》した。まだ余《あま》つてゐるのを、此間《このあひだ》の鉢《はち》に水《みづ》を張《は》つて置いて、茎《くき》を短かく切つて、はぱ/\放《ほう》り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書《か》いた。文句は極《きわ》めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛《かゝ》つて、御話《おはな》ししたい事があるから来《き》て呉れろと云ふ丈であつた。
 代助は手を打《う》つて、門野《かどの》を呼《よ》んだ。門野《かどの》は鼻《はな》を鳴らして現《あらは》れた。手紙を受取りながら、
「大変|好《い》い香《にほひ》ですな」と云つた。代助は、
「車《くるま》を持つて行《い》つて、乗《の》せて来《く》るんだよ」と念《ねん》を押《お》した。門野《かどの》は雨《あめ》の中《なか》を乗《の》りつけの帳場迄|出《で》て行《い》つた。
 代助は、百合《ゆり》の花《はな》を眺《なが》めながら、部屋を掩《おゝ》ふ強い香《か》の中《なか》に、残《のこ》りなく自己を放擲《ほうてき》した。彼は此《この》嗅覚の刺激のうちに、三千代《みちよ》の過去を分明《ふんみよう》に認めた。其《その》過去には離《はな》すべからざる、わが昔《むかし》の影《かげ》が烟《けむり》の如く這《は》ひ纏《まつ》はつてゐた。彼はしばらくして、
「今日《けふ》始《はじ》めて自然《しぜん》の昔《むかし》に帰るんだ」と胸《むね》の中《なか》で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃《としごろ》にない安慰を総身《そうしん》に覚えた。何故《なぜ》もつと早く帰《かへ》る事が出来なかつたのかと思つた。始《はじめ》から何故《なぜ》自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨《あめ》の中《なか》に、百合《ゆり》の中《なか》に、再現《さいげん》の昔《むかし》のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸《ブリス》であつた。だから凡てが美《うつく》しかつた。
 やがて、夢《ゆめ》から覚《さ》めた。此|一刻《いつこく》の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭《あたま》を冒《おか》して来《き》た。彼《かれ》の唇《くちびる》は色《いろ》を失《うしな》つた。彼《かれ》は黙然として、我《われ》と吾《わが》手を眺《なが》めた。爪《つめ》の甲の底《そこ》に流れてゐる血潮《ちしほ》が、ぶる/\顫《ふる》へる様に思はれた。彼《かれ》は立《た》つて百合《ゆり》の花《はな》の傍《そば》へ行つた。唇《くちびる》が瓣《はなびら》に着《つ》く程近く寄《よ》つて、強い香《か》を眼《め》の眩《ま》う迄《まで》嗅《か》いだ。彼《かれ》は花《はな》から花《はな》へ唇《くちびる》を移《うつ》して、甘《あま》い香《か》に咽《む》せて、失心して室《へや》の中《なか》に倒れたかつた。彼《かれ》はやがて、腕を組《く》んで、書斎と座敷《ざしき》の間《あひだ》を往《い》つたり来《き》たりした。彼《かれ》の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼《かれ》は時々《とき/″\》椅子の角《かど》や、洋卓《デスク》の前へ来《き》て留《と》まつた。それから又|歩《ある》き出《だ》した。彼《かれ》の心《こゝろ》の動揺は、彼《かれ》をして長く一所《いつしよ》に留《とゞ》まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為《ため》に、無暗《むやみ》な所《ところ》に立ち留《ど》まらざるを得なかつた。
 其内《そのうち》に時は段々|移《うつ》つた。代助は断えず置時計の針《はり》を見た。又|覗《のぞ》く様に、軒《のき》から外《そと》の雨《あめ》を見た。雨《あめ》は依然として、空《そら》から真直《まつすぐ》に降《ふ》つてゐた。空《そら》は前《まへ》よりも稍|暗《くら》くなつた。重《かさ》なる雲《くも》が一《ひと》つ所《ところ》で渦《うづ》を捲《ま》いて、次第《しだい》に地面の上《うへ》へ押し寄《よ》せるかと怪しまれた。其時|雨《あめ》に光《ひか》る車《くるま》を門《もん》から中《うち》へ引き込んだ。輪《わ》の音《おと》が、雨《あめ》を圧《あつ》して代助の耳《みゝ》に響いた時、彼は蒼白《あをしろ》い頬《ほゝ》に微笑を洩《もら》しながら、右《みぎ》の手を胸《むね》に当《あ》てた。

0 件のコメント: