2008年11月13日木曜日

三の六

 代助は一寸《ちよつと》話《はなし》を已《や》めて、梅子《うめこ》の肩越《かたごし》に、窓掛《まどかけ》の間《あひだ》から、奇麗な空《そら》を透《す》かす様に見てゐた。遠くに大きな樹《き》が一本ある。薄茶色《うすちやいろ》の芽《め》を全体に吹いて、柔《やわ》らかい梢《こづえ》の端《はじ》が天《てん》に接《つゞ》く所は、糠雨《ぬかあめ》で暈《ぼか》されたかの如くに霞《かす》んでゐる。
「好《い》い気候になりましたね。何所《どこ》か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから仰《おつ》しやい」
「何《なに》を」
「御父《おとう》さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、秩序立《ちつじよだ》てて繰《く》り返《かへ》すのは困るですよ。頭《あたま》が悪《わる》いんだから」
「まだ空《そら》つとぼけて居《ゐ》らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、伺《うかゞ》ひませうか」
 梅子は少しつんとした。
「貴方《あなた》は近頃余つ程|減《へ》らず口《ぐち》が達者におなりね」
「何《なに》、姉《ねえ》さんが辟易する程ぢやない。――時に今日《けふ》は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
 十六七の小間使《こまづかひ》が戸《と》を開《あ》けて顔《かほ》を出した。あの、旦那様が、奥様に一寸《ちよつと》電話|口《ぐち》迄と取り次《つ》いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて客間《きやくま》を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、其所《そこ》に居《ゐ》らつしやい。少し話しがあるから」
 代助には嫂《あによめ》のかう云ふ命令的の言葉が何時《いつ》でも面白く感ぜられる。御緩《ごゆつくり》と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出《だ》した。しばらくすると、其色が壁《かべ》の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の眼球《めだま》の中《なか》から飛び出して、壁《かべ》の上《うへ》へ行つて、べた/\喰《く》つ付《つ》く様に見えて来《き》た。仕舞には眼球《めだま》から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、此方《こちら》の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、下手《へた》な個所々々を悉く塗り更《か》へて、とう/\自分の想像し得《う》る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と坐《すは》つてゐた。所へ梅子《うめこ》が帰つて来《き》たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
 梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、何《い》づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の好《い》い逃《にげ》口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に図迂《づう》々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。口《くち》と顎《あご》の角度が悪《わる》いとか、眼《め》の長さが顔の幅《はゞ》に比例しないとか、耳の位置が間違《まちが》つてるとか、必ず妙な非難を持つて来《く》る。それが悉く尋常な言草《いひぐさ》でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を困《こま》らせるのだらう。当分|打遣《うつちや》つて置いて、向ふから頼み出させるに若《し》くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ口《くち》にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄|暮《くら》して来《き》た。
 其所《そこ》へ親爺《おやぢ》が甚だ因念の深《ふか》いある候補者を見付けて、旅行|先《さき》から帰つた。梅子は代助の来《く》る二三日前に、其話を親爺《おやぢ》から聞かされたので、今日《けふ》の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、此日《このひ》何にも聞《き》かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、故意《わざ》と話題を避けたとも取れる。
 此候補者に対して代助は一種特殊な関係を有《も》つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。何故《なぜ》その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。

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