2008年11月13日木曜日

五の一

 翌日《よくじつ》朝《あさ》早《はや》く門野《かどの》は荷車《にぐるま》を三台|雇《やと》つて、新橋の停車場《ていしやば》迄平岡の荷物《にもつ》を受取《うけと》りに行《い》つた。実は疾《と》うから着《つ》いて居たのであるけれども、宅《うち》がまだ極《きま》らないので、今日《けふ》迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何《ど》うしても半日仕事である。早く行かなけりや、間《ま》に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野《かどの》は例の調子で、なに訳《わけ》はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅《うち》へ届《とゞ》けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
 それから十一時|過《すぎ》迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家《いへ》の部屋《へや》を、青色《あをいろ》と赤色《あかいろ》に分《わか》つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外《ほか》ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
 代助は何故《なぜ》ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤《あか》の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好《い》い心持はしない。出来得るならば、自分の頭《あたま》丈でも可《い》いから、緑《みどり》のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画《か》いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好《い》い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
 代助は縁側へ出て、庭《には》から先《さき》にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽《しんめ》若葉《わかば》の初期である。はなやかな緑《みどり》がぱつと顔《かほ》に吹き付けた様な心持ちがした。眼《め》を醒《さま》す刺激の底《そこ》に何所《どこ》か沈《しづ》んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打《とりうち》帽を被《かむ》つて、銘仙《めいせん》の不断|着《ぎ》の儘|門《もん》を出《で》た。
 平岡の新宅へ来て見ると、門《もん》が開《あ》いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着《つ》いた様子もなければ、平岡夫婦の来《き》てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人《ひとり》縁側に腰を懸《か》けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻《さつき》一返|御出《おいで》になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過《ひるすぎ》だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に来《き》たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着《つ》くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ出《で》た。
 神田へ来《き》たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども二人《ふたり》の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので一寸《ちょつと》顔《かほ》を出《だ》した。夫婦は膳《ぜん》を並《なら》べて飯《めし》を食《く》つてゐた。下女《げじよ》が盆《ぼん》を持《も》つて、敷居に尻《しり》を向けてゐる。其|後《うしろ》から、声を懸けた。
 平岡は驚ろいた様に代助を見た。其眼《そのめ》が血ばしつてゐる。二三日|能《よ》く眠《ねむ》らない所為《せゐ》だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ方《かた》だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。留《と》めるのを外《そと》へ出《で》て、飯《めし》を食つて、髪《かみ》を刈つて、九段の上《うへ》へ一寸《ちょつと》寄つて、又帰りに新|宅《たく》へ行つて見た。三千代は手拭を姉《ねえ》さん被《かぶ》りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、襷《たすき》がけで荷物の世話を焼《や》いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も来《き》てゐる。平岡は縁側で行李の紐《ひも》を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手伝《てつだ》はないかと云つた。門野《かどの》は袴を脱《ぬ》いで、尻《しり》を端折つて、重《かさ》ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ抱《かゝ》へ込みながら、先生どうです、此|服装《なり》は、笑《わら》つちや不可《いけ》ませんよと云つた。

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