2008年11月12日水曜日

十四の十

「僕の存在には貴方《あなた》が必要だ。何《ど》うしても必要だ。僕《ぼく》は夫丈の事を貴方《あなた》に話《はな》したい為《ため》にわざ/\貴方《あなた》を呼《よ》んだのです」
 代助の言葉には、普通の愛人《あいじん》の用ひる様な甘《あま》い文彩《あや》を含《ふく》んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼《せま》つてゐた。但《たゞ》、夫丈《それだけ》の事を語《かた》る為《ため》に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具《おもちや》の詩歌《しか》に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上|世間《せけん》の小説に出《で》て来《く》る青春《せいしゆん》時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華《はな》やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心《こゝろ》に達した。三千代は顫《ふる》へる睫毛《まつげ》の間《あひだ》から、涙を頬《ほゝ》の上《うへ》に流した。
「僕はそれを貴方《あなた》に承知して貰《もら》ひたいのです。承知して下《くだ》さい」
 三千代は猶|泣《な》いた。代助に返事をする所《どころ》ではなかつた。袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して顔《かほ》へ当《あ》てた。濃い眉《まゆ》の一部分と、額《ひたひ》と生際《はえぎは》丈が代助の眼《め》に残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺《す》り寄せた。
「承知して下《くだ》さるでせう」と耳《みゝ》の傍《はた》で云つた。三千代は、まだ顔《かほ》を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余《あんま》りだわ」と云ふ声が手帛《ハンケチ》の中《なか》で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅《おそ》過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁《とつ》ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙《なみだ》と涙《なみだ》の間《あひだ》をぼつ/\綴《つゞ》る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方《あなた》に左様《さう》打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮《ぶ》然として口《くち》を閉《と》ぢた。三千代は急に手帛《ハンケチ》を顔《かほ》から離《はな》した。瞼《まぶた》の赤《あか》くなつた眼《め》を突然代助の上《うへ》に※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》つて、
「打ち明《あ》けて下《くだ》さらなくつても可《い》いから、何故《なぜ》」と云ひ掛《か》けて、一寸《ちよつと》※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇《ちうちよ》したが、思ひ切つて、「何故《なぜ》棄《す》てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又|手帛《ハンケチ》を顔《かほ》に当《あ》てゝ又|泣《な》いた。
「僕《ぼく》が悪《わる》い。堪忍して下《くだ》さい」
 代助は三千代の手頸《てくび》を執《と》つて、手帛《ハンケチ》を顔《かほ》から離《はな》さうとした。三千代は逆《さから》はうともしなかつた。手帛《ハンケチ》は膝の上《うへ》に落ちた。三千代は其|膝《ひざ》の上《うへ》を見た儘《まゝ》、微《かす》かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元《くちもと》の肉《にく》が顫《ふる》ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈《それだけ》の罰《ばつ》を受《う》けてゐます」
 三千代は不思議な眼《め》をして顔《かほ》を上《あ》げたが、
「何《ど》うして」と聞《き》いた。
「貴方《あなた》が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身《どくしん》でゐます」
「だつて、夫《それ》は貴方《あなた》の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰《もら》はうと思つても、貰《もら》へないのです。それから以後、宅《うち》のものから何遍結婚を勧められたか分《わか》りません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度《こんど》も亦|一人《ひとり》断《ことわ》りました。其結果僕と僕の父《ちゝ》との間《あひだ》が何《ど》うなるか分《わか》りません。然し何《ど》うなつても構はない、断《ことわ》るんです。貴方《あなた》が僕に復讐《ふくしう》してゐる間《あひだ》は断《ことわ》らなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼《め》を働《はたら》かした。「私《わたくし》は是でも、嫁《よめ》に行《い》つてから、今日《こんにち》迄|一日《いちにち》も早く、貴方《あなた》が御結婚なされば可《い》いと思はないで暮《く》らした事はありません」と稍|改《あら》たまつた物の言《い》ひ振《ぶり》であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方《あなた》に何所《どこ》迄も復讐して貰《もら》ひたいのです。それが本望なのです。今日《けふ》斯《こ》うやつて、貴方《あなた》を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方《あなた》から復讐《ふくしう》されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来《き》た人間《にんげん》なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方《あなた》の前に懺悔《ざんげ》する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」

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