2008年11月14日金曜日

三の四

「身体《からだ》は丈夫だね」
「二三年このかた風邪《かぜ》を引《ひ》いた事《こと》もありません」
「頭《あたま》も悪《わる》い方ぢやないだらう。学校の成蹟も可《か》なりだつたんぢやないか」
「まあ左様《さう》です」
「夫《それ》で遊《あそ》んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら御前《おまへ》の所へ善《よ》く話しに来《き》た男があるだらう。己《おれ》も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の可《い》い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ何処《どこ》かへ行つたぢやないか」
「其代り失敗《しくじつ》て、もう帰《かへ》つて来《き》ました」
 老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「詰《つま》り食《く》ふ為《ため》に働《はた》らくからでせう」
 老人には此意味が善《よ》く解《わか》らなかつた。
「何《なに》か面白くない事でも遣《や》つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り失敗《しくじり》になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を易《か》へて、説き出した。
「若い人がよく失敗《しくじる》といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己《おれ》も多年の経験で、此年《このとし》になる迄|遣《や》つて来《き》たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、先《まづ》ないな」
 親爺《おやぢ》の頭《あたま》の上《うへ》に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、親爺《おやぢ》は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後《あと》へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
 其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀《かたな》を脱いで其前に頭《あたま》を下《さ》げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より返《かへ》せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此|額《がく》を藩主に書《か》いて貰《もら》つたんである。爾来長井は何時《いつ》でも、之を自分の居間《ゐま》に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍|聞《き》かされたか知れない。
 今から十五六年前に、旧藩主の家《いへ》で、月々《つき/″\》の支出が嵩《かさ》んできて、折角持ち直した経済が又|崩《くづ》れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の薪《まき》を焚いて見《み》て、実際の消費|高《だか》と帳面づらの消費|高《だか》との差違から調《しら》べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな生計《くらし》をしてゐる。
 斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、何《なん》によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「何《ど》う云ふ訳で」
 代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合《できあひ》の奴《やつ》を胸に蓄《たく》はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花《ひばな》の出《で》る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者|二人《ににん》の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪《わる》くつては起《おこ》り様がない。
「御父《おとう》さんは論語だの、王陽明だのといふ、金《きん》の延金《のべがね》を呑《の》んで入らつしやるから、左様《さう》いふ事を仰しやるんでせう」
「金《きん》の延金《のべがね》とは」
 代助はしばらく黙《だま》つてゐたが、漸やく、
「延金《のべがね》の儘|出《で》て来《く》るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。

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