2008年11月12日水曜日

十三の九

 其夜《そのよ》代助は平岡と遂に愚図々々で分《わか》れた。会見の結果から云ふと、何の為《ため》に平岡を新聞社に訪《たづ》ねたのだか、自分にも分《わか》らなかつた。平岡の方から見れば、猶更|左様《さう》であつた。代助は必竟|何《なに》しに新聞社迄出掛て来《き》たのか、帰る迄ついに問ひ詰《つ》めづに済んで仕舞つた。
 代助は翌日《よくじつ》になつて独《ひと》り書斎で、昨夕《ゆふべ》の有様《ありさま》を何遍《なんべん》となく頭《あたま》の中《なか》で繰《く》り返した。二時|間《かん》も一所に話《はな》してゐるうちに、自分が平岡に対して、比較的|真面目《まじめ》であつたのは、三千代を弁護した時丈であつた。けれども其|真面目《まじめ》は、単に動機《どうき》の真面目《まじめ》で、口《くち》にした言葉は矢張|好加減《いゝかげん》な出任《でまか》せに過ぎなかつた。厳酷に云へば、嘘許《うそばかり》と云つても可《よ》かつた。自分で真面目《まじめ》だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未来を救ふ手段である。平岡から見れば、固《もと》より真摯なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落《おと》し込まうと、たくらんで掛《かゝ》つた、打算《ださん》的のものであつた。従つて平岡を何《ど》うする事も出来なかつた。
 もし思ひ切つて、三千代を引合《ひきあひ》に出《だ》して、自分の考へ通りを、遠慮なく正面から述《の》べ立てたら、もつと強い事が云へた。もつと平岡を動揺《ゆすぶ》る事が出来た。もつと彼《かれ》の肺腑に入る事が出来た。に違《ちがひ》ない。其代り遣《や》り損《そこな》へば、三千代に迷惑がかゝつて来《く》る。平岡と喧嘩になる。かも知れない。
 代助は知らず/\の間《あひだ》に、安全にして無能力な方針を取つて、平岡に接してゐた事を腑甲斐なく思つた。もし斯《か》う云ふ態度で平岡に当《あた》りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に委《ゆだ》ねて置けない程の不安があるならば、それは論理の許《ゆる》さぬ矛盾を、厚顔《こうがん》に犯してゐたと云はなければならない。
 代助は昔《むかし》の人《ひと》が、頭脳《づのう》の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、自《みづか》らは固《かた》く人《ひと》の為《ため》と信じて、泣《な》いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動《うご》かし得たのを羨《うらや》ましく思つた。自分の頭《あたま》が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕《ゆふべ》の会談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は人《ひと》から、ことに自分の父《ちゝ》から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼《かれ》の解剖によると、事実は斯《か》うであつた。人間《にんげん》は熱誠を以て当《あた》つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行為を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒《てら》つて、己れを高くする山師《やまし》に過ぎない。だから彼《かれ》の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外《ほか》ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、其《その》あまりに、狡黠《ずる》くつて、不真面目《ふまじめ》で、大抵は虚偽《きよぎ》を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。
 此所《こゝ》で彼は一《いつ》のヂレンマに達した。彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然其反対に出て、何も知らぬ昔《むかし》に返るか。何方《どつち》かにしなければ生活の意義を失つたものと等《ひと》しいと考へた。其他のあらゆる中途半端《ちうとはんぱ》の方法は、偽《いつはり》に始《はじま》つて、偽《いつはり》に終《おは》るより外《ほか》に道はない。悉く社会的に安全であつて、悉く自己に対して無能無力である。と考へた。
 彼《かれ》は三千代と自分の関係を、天意によつて、――彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。――醗酵させる事の社会的危険を承知してゐた。天意には叶ふが、人の掟《おきて》に背く恋《こひ》は、其|恋《こひ》の主《ぬし》の死によつて、始めて社会から認《みと》められるのが常であつた。彼《かれ》は万一の悲劇を二人《ふたり》の間に描《ゑが》いて、覚えず慄然とした。
 彼《かれ》は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像して見た。其時は天意に従ふ代りに、自己の意志に殉する人《ひと》にならなければ済《す》まなかつた。彼《かれ》は其手段として、父《ちゝ》や嫂《あによめ》から勧められてゐた結婚に思ひ至つた。さうして、此結婚を肯《うけが》ふ事が、凡ての関係を新《あらた》にするものと考へた。

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