2008年11月13日木曜日

九の四

 代助は父《ちゝ》を怒《おこ》らせる気は少しもなかつたのである。彼《かれ》の近頃の主義として、人《ひと》と喧嘩をするのは、人間《にんげん》の堕落の一|範鋳《はんちう》になつてゐた。喧嘩《けんくわ》の一部分として、人《ひと》を怒《おこ》らせるのは、怒《おこ》らせる事自身よりは、怒《おこ》つた人《ひと》の顔色《かほいろ》が、如何に不愉快にわが眼《め》に映《えい》ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷《きづつ》ける打撃に外《ほか》ならぬと心得てゐた。彼《かれ》は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有《も》つてゐた。けれども、それが為《ため》に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰《ばつ》を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬《き》つたものゝ受くる罰《ばつ》は、斬《き》られた人《ひと》の肉《にく》から出《で》る血潮であると固《かた》く信《しん》じてゐた。迸《ほとば》しる血の色を見て、清《きよ》い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔《かほ》の色《いろ》を赤くした父《ちゝ》を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父《ちゝ》の云ふ通りにしやうと云ふ気は些《ちつ》とも起らなかつた。彼《かれ》は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
 其時|父《ちゝ》は頗《すこぶ》る熱した語気で、先《ま》づ自分の年《とし》を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁《よめ》を持《も》たせるのは親《おや》の義務であると云ふ事、嫁《よめ》の資格其他に就ては、本人よりも親《おや》の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他《ひと》の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後《あと》になると、もう一遍うるさく干《かん》渉して貰ひたい時機が来《く》るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説《と》いた。代助は慎重な態度で、聴《き》いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許|諾《だく》の意を表さなかつた。すると父《ちゝ》はわざと抑《おさ》えた調子で、
「ぢや、佐川は已《や》めるさ。さうして誰《だれ》でも御前の好《すき》なのを貰《もら》つたら好《い》いだらう。誰《だれ》か貰《もら》ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂《あによめ》の質問と同様であるが、代助は梅子《うめこ》に対《たい》する様に、たゞ苦笑《くしやう》ばかりしてはゐられなかつた。
「別《べつ》にそんな貰ひたいのもありません」と明《あき》らかな返事をした。すると父《ちゝ》は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、少《すこ》しは此方《こつち》の事も考へて呉れたら好《よ》からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然|父《ちゝ》が代助を離れて、彼《かれ》自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上《うへ》に注《そゝ》がれた丈であつた。
「貴方《あなた》にそれ程御都合が好《い》い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。
 父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何《ど》うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫《それ》が為《た》め、よく人《ひと》から、相手を遣《や》り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼《かれ》程人を遣《や》り込める事の嫌な男はないのである。
「何も己《おれ》の都合|許《ばかり》で、嫁《よめ》を貰へと云つてやしない」と父《ちゝ》は前《まへ》の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の為《ため》、云つて聞かせるが、御前《おまへ》はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間《せけん》では何《なん》と思ふか大抵|分《わか》るだらう。そりや今《いま》は昔《むかし》と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の為《ため》に親《おや》や兄弟が迷惑《めいわく》したり、果《はて》は自分の名誉に関係《くわんけい》する様な事が出来《しつたい》したりしたら何《ど》うする気だ」
 代助はたゞ茫然として父《ちゝ》の顔《かほ》を見てゐた。父《ちゝ》は何《ど》の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分《わか》らなかつたからである。しばらくして、
「そりや私《わたくし》のことだから少《すこ》しは道楽もしますが……」と云ひかけた。父《ちゝ》はすぐ夫《それ》を遮《さへ》ぎつた。
「そんな事《こと》ぢやない」
 二人《ふたり》は夫限《それぎ》りしばらく口《くち》を利《き》かずにゐた。父《ちゝ》は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和《やわ》らげて、
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、父《ちゝ》の室《へや》を退《しり》ぞいた。座敷へ来《き》て兄《あに》を探《さが》したが見えなかつた。嫂《あによめ》はと尋ねたら、客間《きやくま》だと下女が教へたので、行《い》つて戸を明《あ》けて見ると、縫子のピヤノの先生が来《き》てゐた。代助は先生に一寸《ちよつと》挨拶をして、梅子《うめこ》を戸口《とぐち》迄|呼《よ》び出《だ》した。
「あなたは僕《ぼく》の事を何か御父《おとう》さんに讒訴しやしないか」
 梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度|好《い》い所だから」と云つて、代助を楽器の傍《そば》迄引張つて行《い》つた。

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