2008年11月12日水曜日

十四の三

 けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次《つ》いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注《そゝ》がれてゐた。従つて、いくら平生の自分に帰つて、梅子の相手になる積でも、梅子の予期してゐない、変つた音色《ねいろ》が、時々《とき/″\》会話の中《なか》に、思はず知らず出《で》て来《き》た。
「代さん、貴方《あなた》今日《けふ》は何《ど》うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は固《もと》より嫂《あによめ》の言葉を側面《そくめん》へ摺《ず》らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを遣《や》るのが、軽薄の様で、又面倒な様で、今日《けふ》は厭《いや》になつた。却《かへ》つて真面目《まじめ》に、何処《どこ》が変《へん》か教へて呉れと頼《たの》んだ。梅子は代助の問《とひ》が馬鹿気てゐるので妙な顔をした。が、代助が益《ます/\》頼《たの》むので、では云つて上《あ》げませうと前置をして、代助の何《ど》うかしてゐる例を挙げ出した。梅子は勿論わざと真面目《まじめ》を装つてゐるものと代助を解釈した。其中《そのなか》に、
「だつて、兄《にい》さんが留守勝《るすがち》で、嘸御|淋《さむ》しいでせうなんて、あんまり思遣《おもひや》りが好過《よす》ぎる事を仰《おつ》しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は其所《そこ》へ自分を挟《はさ》んだ。
「いや、僕の知つた女《をんな》に、左様《さう》云ふのが一人《ひとり》あつて、実《じつ》は甚だ気の毒だから、つい他《ほか》の女《をんな》の心持《こゝろもち》も聞《き》いて見たくなつて、伺《うかゞ》つたんで、決して冷《ひや》かした積《つもり》ぢやないんです」
「本当に? 夫《そり》や一寸《ちよいと》何《なん》てえ方《かた》なの」
「名前は云《い》ひ悪《にく》いんです」
「ぢや、貴方《あなた》が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと可愛《かわい》がるやうにして御|上《あげ》になれば可《い》いのに」
 代助は微笑した。
「姉《ねえ》さんも、さう思ひますか」
「当り前ですわ」
「もし其|夫《おつと》が僕の忠告を聞《き》かなかつたら、何《ど》うします」
「そりや、何《ど》うも仕様がないわ」
「放《ほう》つて置《お》くんですか」
「放《ほう》つて置《お》かなけりや、何《ど》うなさるの」
「ぢや、其細君は夫《おつと》に対《たい》して細君の道を守《まも》る義務があるでせうか」
「大変|理責《りぜ》めなのね。夫《そり》や旦那の不親切の度合《どあひ》にも因《よ》るでせう」
「もし、其細君に好《す》きな人があつたら何《ど》うです」
「知らないわ。馬鹿らしい。好《す》きな人がある位なら、始めつから其方《そつち》へ行《い》つたら好《い》いぢやありませんか」
 代助は黙《だま》つて考へた。しばらくしてから、姉《ねえ》さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、改《あら》ためて代助の顔《かほ》を見た。代助は同じ調子で猶《なほ》云つた。
「僕《ぼく》は今度《こんど》の縁談《えんだん》を断《ことわ》らうと思《おも》ふ」
 代助の巻烟草《まきたばこ》を持《も》つた手が少《すこ》し顫《ふる》へた。梅子は寧ろ表情を失《うしな》つた顔付《かほつき》をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。
「僕は今迄結婚問題に就いて、貴方《あなた》に何返となく迷惑を掛けた上《うへ》に、今度《こんど》も亦心配して貰《もら》つてゐる。僕《ぼく》ももう三十だから、貴方《あなた》の云ふ通り、大抵な所で、御勧め次第になつて好《い》いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已《や》めにしたい希望です。御父《おとう》さんにも、兄《にい》さんにも済《す》まないが、仕方《しかた》がない。何《なに》も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが、断《ことわ》るんです。此間|御父《おとう》さんによく考へて見ろと云はれて、大分考へて見たが、矢っ張り断《ことわ》る方が好《い》い様だから断《ことわ》ります。実《じつ》は今日《けふ》は其用で御父《おとう》さんに逢《あ》ひに来《き》たんですが、今《いま》御客《おきやく》の様だから、序《ついで》と云つては失礼だが、貴方《あなた》にも御話《おはなし》をして置きます」
 梅子は代助の様子が真面目なので、何時《いつ》もの如く無駄|口《くち》も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが極《きわ》めて簡単《かんたん》な且つ極《きわ》めて実際的な短かい句であつた。
「でも、御父《おとう》さんは屹度御困りですよ」
「御父《おとう》さんには僕が直《ぢか》に話すから構ひません」
「でも、話《はなし》がもう此所《こゝ》迄|進《すゝ》んでゐるんだから」
「話が何所《どこ》迄進んでゐやうと、僕はまだ貰《もら》ひますと云つた事はありません」
「けれども判然《はつきり》貰《もら》はないとも仰しやらなかつたでせう」
「それを今云ひに来《き》た所です」
 代助と梅子は向《むか》ひ合《あ》つたなり、しばらく黙《だま》つた。

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