2008年11月12日水曜日

十一の二

 代助が黙然《もくねん》として、自己《じこ》は何の為《ため》に此世《このよ》の中《なか》に生《うま》れて来《き》たかを考へるのは斯《か》う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕《とら》へて、彼《かれ》の眼前《がんぜん》に据ゑ付けて見た。其|動機《どうき》は、単《たん》に哲学上の好奇心から来《き》た事《こと》もあるし、又|世間《せけん》の現象が、余《あま》りに複雑《ふくざつ》な色彩《しきさい》を以て、彼《かれ》の頭《あたま》を染め付《つ》けやうと焦《あせ》るから来《く》る事もあるし、又最後には今日《こんにち》の如くアンニユイの結果として来《く》る事もあるが、其|都度《つど》彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之《これ》と反対に、生《うま》れた人間《にんげん》に、始めてある目的が出来《でき》て来《く》るのであつた。最初から客観的にある目的を拵《こし》らえて、それを人間《にんげん》に附着するのは、其|人間《にんげん》の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間《にんげん》の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
 此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩《ある》きたいから歩《ある》く。すると歩《ある》くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩《ある》いたり、考《かんが》へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自《みづか》ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
 だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望《ぐわんもう》、嗜欲《きよく》が起るたび毎《ごと》に、是等の願望《ぐわんもう》嗜欲《きよく》を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望《ぐわんもう》嗜欲《きよく》が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出《で》る一目的の消耗と解釈してゐた。これを煎《せん》じ詰《つ》めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を偽《いつは》らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
 此主義を出来る丈遂行する彼《かれ》は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為《ため》に、こんな事をしてゐるのかと考へ出《だ》す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故《なぜ》散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是《これ》である。
 其時|彼《かれ》は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自《みづか》ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと名《なづ》けてゐた。アンニユイに罹《かゝ》ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何《なに》の為《ため》と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外《ほか》ならなかつたからである。
 彼《かれ》は立《た》て切《き》つた室《へや》の中《なか》で、一二度|頭《あたま》を抑えて振《ふ》り動《うご》かして見た。彼は昔《むかし》から今日《こんにち》迄の思索家の、屡《しばしば》繰《く》り返《かへ》した無意義な疑義を、又|脳裏《のうり》に拈定《ねんてい》するに堪えなかつた。その姿《すがた》のちらりと眼前《がんぜん》に起《おこ》つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切《き》り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。従つて行為其物を目的として、円満に遂行する興味も有《も》たなかつた。彼はたゞ一人《ひとり》荒野《こうや》の中《うち》に立《た》つた。茫然としてゐた。
 彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ来《く》ると、此二つのものが火花《ひばな》を散《ち》らして切り結《むす》ぶ関門《くわんもん》があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に留《と》めて我慢してゐた。彼の室《へや》は普通の日本間《にほんま》であつた。是《これ》と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、額《がく》さへ気の利《き》いたものは掛けてなかつた。色彩《しきさい》として眼《め》を惹《ひ》く程に美《うつく》しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼《かれ》は今此書物の中《なか》に、茫然として坐《すは》つた。良《やゝ》あつて、これほど寐入《ねい》つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何《ど》うかしなければならぬと、思ひながら、室《へや》の中《なか》をぐる/\見廻《みまは》した。それから、又ぽかんとして壁《かべ》を眺《なが》めた。が、最後《さいご》に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口《くち》の内《うち》で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに逢《あ》はなくちや不可《いか》ん」

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