2008年11月12日水曜日

十二の一

 代助は嫂《あによめ》の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間《あひだ》があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影《かげ》を黒い文字の上《うへ》に認める事が出来《でき》なくなつた。落付《おちつ》いて考へれば、考へは蓮《はちす》の糸《いと》を引く如くに出《で》るが、出たものを纏めて見《み》ると、人《ひと》の恐《おそ》ろしがるもの許《ばかり》であつた。仕舞には、斯様《かやう》に考へなければならない自分が怖《こわ》くなつた。代助は蒼白《あをしろ》く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為《ため》に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父《ちゝ》の別荘に行く積《つもり》であつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大《たい》した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて来《き》て、自分の行《い》くべき先《さき》を調《しら》べて見た。が、自分の行くべき先《さき》は天下中《てんかぢう》何処《どこ》にも無《な》い様な気がした。しかし、代助は無理にも何処《どこ》かへ行《い》かうとした。それには、支度を調《とゝの》へるに若《し》くはないと極めた。代助は電車に乗つて、銀座《ぎんざ》迄|来《き》た。朗《ほがら》かに風《かぜ》の往来を渡《わた》る午後であつた。新橋の勧工|場《ば》を一回《ひとまはり》して、広い通りをぶら/\と京橋の方へ下《くだ》つた。其時《そのとき》代助の眼《め》には、向ふ側《がは》の家《いへ》が、芝居の書割《かきわり》の様に平《ひら》たく見えた。青《あを》い空《そら》は、屋根《やね》の上《うへ》にすぐ塗《ぬ》り付《つ》けられてゐた。
 代助は二三の唐物|屋《や》を冷《ひや》かして、入用《いりやう》の品《しな》を調《とゝの》へた。其中《そのなか》に、比較的|高《たか》い香水があつた。資生堂で練歯磨《ねりはみがき》を買はうとしたら、若《わか》いものが、欲《ほ》しくないと云ふのに自製のものを出《だ》して、頻《しきり》に勧《すゝ》めた。代助は顔《かほ》をしかめて店《みせ》を出《で》た。紙包《かみゞつみ》を腋《わき》の下《した》に抱《かゝ》へた儘、銀座の外《はづ》れ迄|遣《や》つて来《き》て、其所《そこ》から大根河岸《だいこんがし》を回《まは》つて、鍛冶橋《かじばし》を丸の内《うち》へ志《こゝろざ》した。当《あて》もなく西《にし》の方へ歩《ある》きながら、是《これ》も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句《あげく》、草臥《くたび》れて車《くるま》をと思つたが、何処《どこ》にも見当《みあた》らなかつたので又電車へ乗《の》つて帰つた。
 家《うち》の門《もん》を這入《はい》ると、玄関に誠太郎のらしい履《くつ》が叮嚀に并《なら》べてあつた。門野《かどの》に聞《き》いたら、へえ左様《さう》です、先方《さつき》から待《ま》つて御出《おいで》ですといふ答《こたへ》であつた。代助はすぐ書斎へ来《き》て見《み》た。誠太郎は、代助の坐《すは》る大きな椅子《いす》に腰《こし》を掛《か》けて、洋卓《テーブル》の前《まへ》で、アラスカ探検《たんけん》記を読んでゐた。洋卓《テーブル》の上《うへ》には、蕎麦饅《そばまん》頭と茶|盆《ぼん》が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、人《ひと》のゐない留守《るす》に来《き》て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席《せき》を立《た》つた。
「其所《そこ》に居《ゐ》るなら、ゐても構《かま》はないよ」と云つても、聞《き》かなかつた。
 代助は誠太郎を捕《つら》まえて、例《いつも》の様に調戯《からか》ひ出《だ》した。誠太郎は此間《このあひだ》代助が歌舞伎|座《ざ》でした欠伸《あくび》の数《かず》を知つてゐた。さうして、
「叔父《おぢ》さんは何時《いつ》奥さんを貰《もら》ふの」と、又|先達《せんだつ》てと同じ様な質問を掛けた。
 此|日《ひ》誠太郎は、父《ちゝ》の使《つかひ》に来《き》たのであつた。其口上は、明日《あした》の十一時迄に一寸《ちよつと》来《き》て呉れと云ふのであつた。代助はさう/\父《ちゝ》や兄《あに》に呼び付《つ》けられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分|怒《おこ》つた様に、
「何《なん》だい、苛《ひど》いぢやないか。用も云はないで、無暗《むやみ》に人《ひと》を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた。代助はそれぎり話《はなし》を外《ほか》へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人《ふたり》の題目の重《おも》なるものであつた。
 晩食《ばんめし》を食《く》つて行《い》けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、叔父《おぢ》さん、明日《あした》は来《こ》ないんですか」と聞《き》いた。代助は已を得ず、
「うむ。何《ど》うだか分《わか》らない。叔父《おぢ》さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「何時《いつ》」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日《けふ》明日《あす》のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て行《い》つたが、沓脱《くつぬぎ》へ下《お》りながら振り返つて、突然
「何処《どこ》へ入らつしやるの」と代助を見上《みあ》げた。代助は、
「何処《どこ》つて、まだ分《わか》るもんか。ぐる/\回《まは》るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや/\しながら、格子を出た。

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