2008年11月12日水曜日

十二の五

 兄《あに》の云ふ所《ところ》によると、佐川の娘は、今度|久《ひさ》し振《ぶり》に叔父《おぢ》に連《つ》れられて、見物|旁《かた/″\》上京したので、叔父の商用が済み次第又|連《つ》れられて国《くに》へ帰るのださうである。父《ちゝ》が其機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結《むす》び付《つ》けやうと企だてたのか、又は先達《せんだつ》ての旅行|先《さき》で、此機会をも自発的に拵《こしら》えて帰つて来《き》たのか、どつちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかつた。自分はたゞ是等の人《ひと》と同じ食卓《しよくたく》で、旨《うま》さうに午餐《ごさん》を味《あぢ》はつて見せれば、社交上の義務は其所《そこ》に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等の発展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて処置を付《つ》けるより外《ほか》に道《みち》はないと思案した。
 代助は婆さんを呼《よ》んで着物《きもの》を出《だ》さした。面倒だと思つたが、敬意を表するために、紋付《もんつき》の夏羽織を着《き》た。袴は一重のがなかつたから、家《うち》へ行《い》つて、父《ちゝ》か兄《あに》かのを穿《は》く事に極《き》めた。代助は神経質な割《わり》に、子供の時からの習慣で、人中《ひとなか》へ出《で》るのを余り苦《く》にしなかつた。宴会とか、招待とか、送別とかいふ機会があると、大抵は都合して出席した。だから、ある方面に知名な人の顔は大分覚えてゐた。其|中《なか》には伯爵とか子爵とかいふ貴公子も交《まじ》つてゐた。彼は斯《こ》んな人《ひと》の仲間入《なかまいり》をして、其|仲間《なかま》なりの交際《つきあひ》に、損も得《とく》も感じなかつた。言語《げんご》動作は何処《どこ》へ出《で》ても同じであつた。外部《ぐわいぶ》から見ると、其所《そこ》が大変能く兄《あに》の誠吾に似てゐた。だから、よく知《し》らない人は、此兄弟の性質を、全く同一型に属するものと信じてゐた。
 代助が青山に着《つ》いた時は、十一時五分前であつたが、御客はまだ来《き》てゐなかつた。兄《あに》もまだ帰《かへ》らなかつた。嫂《あによめ》丈がちやんと支度をして、座敷に坐《すは》つてゐた。代助の顔《かほ》を見て、
「あなたも、随分乱暴ね。人《ひと》を出《だ》し抜《ぬ》いて旅行するなんて」と、いきなり遣《や》り込めた。梅子は場合によると、決して論理《ロジツク》を有《も》ち得ない女であつた。此場合にも、自分が代助を出《だ》し抜《ぬ》いた事には丸で気が付《つ》いてゐない挨拶の仕方《しかた》であつた。それが代助には愛嬌に見えた。で、直《すぐ》そこへ坐《すは》り込んで梅子の服装の品評を始めた。父《ちゝ》は奥にゐると聞《き》いたが、わざと行《い》かなかつた。強《し》ひられたとき、
「今に御客さんが来《き》たら、僕が奥《おく》へ知らせに行く。其時挨拶をすれば好《よ》からう」と云つて、矢っ張り平常《へいぜい》の様な無駄口《むだくち》を叩《たゝ》いてゐた。けれども佐川の娘に関しては、一言も口《くち》を切《き》らなかつた。梅子は何《なん》とかして、話《はなし》を其所《そこ》へ持つて行かうとした。代助には、それが明《あき》らかに見えた。だから、猶《なほ》空《そら》とぼけて讐《かたき》を取つた。
 其うち待ち設けた御客が来《き》たので、代助は約束通りすぐ父《ちゝ》の所へ知《し》らせに行《い》つた。父《ちゝ》は、案《あん》のじよう、
「左様《さう》か」とすぐ立ち上《あ》がつた丈であつた。代助に小言《こごと》を云ふ暇《ひま》も何《なに》も無《な》かつた。代助は座敷へ引き返《かへ》して来《き》て、袴を穿《は》いて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこで悉《ことごと》く顔を合はせた。父《ちゝ》と高木とが第一に話《はなし》を始めた。梅子は重《おも》に佐川の令嬢の相手になつた。そこへ兄《あに》が今朝《けさ》の通りの服装《なり》で、のつそりと這入つて来《き》た。
「いや、何《ど》うも遅《おそ》くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返《かへ》つて、
「大分《だいぶ》早《はや》かつたね」と小《ちい》さな声を掛けた。
 食堂には応接|室《しつ》の次《つぎ》の間《ま》を使つた。代助は戸《と》の開《あ》いた間《あひだ》から、白《しろ》い卓布の角《かど》の際立《きはだ》つた色《いろ》を認めて、午餐は洋食だと心づいた。梅子は一寸《ちよつと》席を立つて、次《つぎ》の入口《いりぐち》を覗《のぞ》きに行つた。それは父《ちゝ》に、食卓の準備が出来|上《あが》つた旨《むね》を知らせる為《ため》であつた。
「では何《ど》うぞ」と父《ちゝ》は立ち上《あ》がつた。高木も会釈して立ち上《あ》がつた。佐川の令嬢も叔父《おぢ》に継《つ》いで立ち上《あ》がつた。代助は其時、女の腰から下《した》の、比較的に細く長《なが》い事を発見した。食卓では、父《ちゝ》と高木が、真中《まんなか》に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、父《ちゝ》の左に令嬢が席を占《し》めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は五味台《クルエツト、スタンド》を中《なか》に、少し斜《なゝめ》に反《そ》れた位地から令嬢の顔《かほ》を眺める事になつた。代助は其|頬《ほゝ》の肉と色が、著《いちぢ》るしく後《うしろ》の窓から射《さ》す光線の影響を受けて、鼻の境《さかひ》に暗過《くらす》ぎる影《かげ》を作つた様に思つた。其代り耳に接した方は、明《あき》らかに薄紅《うすくれなゐ》であつた。殊に小さい耳が、日《ひ》の光を透《とほ》してゐるかの如くデリケートに見えた。皮膚《ひふ》とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな眼《め》を有したゐた。此二つの対照から華《はな》やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。

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