2008年11月14日金曜日

一の三

「君は何方《どつか》の学校へ行つてるんですか」
「もとは行きましたがな。今は廃《や》めちまいました」
「もと、何処《どこ》へ行つたんです」
「何処《どこ》つて方々《ほう/″\》行きました。然しどうも厭《あ》きつぽいもんだから」
「ぢき厭《いや》になるんですか」
「まあ、左様《さう》ですな」
「で、大《たい》して勉強する考もないんですか」
「えゝ、一寸《ちよつと》有りませんな。それに近頃|家《うち》の都合が、あんまり好《よ》くないもんですから」
「家《うち》の婆《ばあ》さんは、あなたの御母《おつか》さんを知つてるんだつてね」
「えゝ、もと、直《ぢき》近所に居たもんですから」
「御母《おつか》さんは矢っ張り……」
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも近頃《ちかごろ》は不景気で、余《あん》まり好《よ》くない様です」
「好《よ》くない様ですつて、君、一所《いつしよ》に居るんぢやないですか」
「一所《いつしよ》に居ることは居ますが、つい面倒だから聞《き》いた事《こと》もありません。何でも能《よ》くこぼしてる様です」
「兄《にい》さんは」
「兄《あに》は郵便局の方へ出てゐます」
「家《うち》は夫《それ》丈ですか」
「まだ弟がゐます。是は銀行の――まあ小使《こづかひ》に少し毛の生えた位な所なんでせう」
「すると遊《あす》んでるのは、君許りぢやないか」
「まあ、左様《そん》なもんですな」
「それで、家《うち》にゐるときは、何をしてゐるんです」
「まあ、大抵|寐《ね》てゐますな。でなければ散歩でも為《し》ますかな」
「外《ほか》のものが、みんな稼《かせ》いでるのに、君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」
「いえ、左様《さう》でもありませんな」
「家庭が余《よ》つ程円満なんですか」
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、御母《おつか》さんや兄《にい》さんから云つたら、一日《いちにち》も早く君に独立して貰《もら》ひたいでせうがね」
「左様《さう》かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な性分《しやうぶん》と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に嘘《うそ》を吐《つ》く料簡もありませんな」
「ぢや全くの呑気《のんき》屋なんだね」
「えゝ、まあ呑気《のんき》屋つて云ふもんでせうか」
「兄《にい》さんは何歳《いくつ》になるんです」
「斯《か》うつと、取つて六《ろく》になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。兄《にい》さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に為《な》つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、何《なに》しろ、どうか為《な》るだらうと思つてます」
「其外《そのほか》に親類はないんですか」
「叔母《おば》が一人《ひとり》ありますがな。こいつは今、浜《はま》で運漕業をやつてます」
「叔母《おば》さんが?」
「叔母《おば》が遣《や》つてる訳でもないんでせうが、まあ叔父《おぢ》ですな」
「其所《そこ》へでも頼《たの》んで使つて貰《もら》つちや、どうです。運漕業なら大分|人《ひと》が要《い》るでせう」
「根が怠惰《なまけ》もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の御母《おつか》さんが、家《うち》の婆さんに頼んで、君を僕の宅《うち》へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく怠《なま》けない様にして……」
「家《うち》へ来《く》る方が好《い》いんですか」
「まあ、左様《さう》ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。身体《からだ》の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも可《い》い」
「ぢや、掃除でもしませう」
 門野《かどの》は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。

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