2008年11月13日木曜日

六の一

 其日誠吾は中々《なか/\》金《かね》を貸して遣《や》らうと云はなかつた。代助も三千代《みちよ》が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言《なきごと》は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄《あに》を、其所《そこ》迄|連《つ》れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口《くち》にすれば、兄《あに》には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方《あつち》へ行《い》つたり此方《こつち》へ来《き》たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺《おやぢ》の所謂熱誠が足りないとは、此所《こゝ》の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障《きざ》だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障《きざ》なものはないと自覚してゐる。兄《あに》には其辺の消息がよく解《わか》つてゐる。だから此手で遣《や》り損《そこ》なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落《おと》す事になる。と気が付《つ》いてゐる。
 代助は飲むに従つて、段々|金《かね》を遠《とほ》ざかつて来《き》た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、旨《うま》く飲《の》めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ段《だん》になつて、思ひ出した様に、金《かね》は借りなくつても好《い》いから、平岡を何処《どこ》か使《つか》つて遣《や》つて呉れないかと頼《たの》んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\飯《めし》を掻き込んでゐた。
 明日《あくるひ》眼《め》が覚《さ》めた時、代助は床《とこ》の中《なか》でまづ第一番に斯う考へた。
「兄《あに》を動《うご》かすのは、同じ仲間《なかま》の実業家でなくつちや駄目だ。単に兄弟《けうだい》の好《よしみ》丈では何《ど》うする事も出来ない」
 斯《か》う考へた様なものゝ、別に兄《あに》を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今|茲《こゝ》で平岡の為《ため》に判《はん》を押《お》して、連借でもしたら、何《ど》うするだらう。矢っ張り彼《あ》の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄《あに》は其所《そこ》迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
 代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為《ため》に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄《あに》が其所《そこ》を見抜いて金《かね》を貸さないとすると、一寸《ちよつと》意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――其所《そこ》迄|来《き》て、代助は自分ながら、あんまり性質《たち》が能くないなと心《こころ》のうちで苦笑した。
 けれども、唯|一《ひと》つ慥《たしか》な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
 斯う考へながら、代助は床《とこ》を出た。門野《かどの》は茶《ちや》の間《ま》で、胡坐《あぐら》をかいて新聞を読んでゐたが、髪《かみ》を濡《ぬ》らして湯殿《ゆどの》から帰《かへ》つて来《く》る代助を見るや否や、急に坐三昧《ゐざんまい》を直《なほ》して、新聞を畳んで坐《ざ》蒲団の傍《そば》へ押《お》し遣《や》りながら、
「何《ど》うも『煤烟《ばいえん》』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、毎朝《まいあさ》読《よ》んでます」
「面白《おもしろ》いですか」
「面白《おもしろ》い様ですな。どうも」
「何《ど》んな所が」
「何《ど》んな所がつて。さう改《あら》たまつて聞《き》かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が出《で》てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の臭《にほ》ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
 代助は黙《だま》つて仕舞つた。

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