2008年11月12日水曜日

十四の八

 三千代は玄関から、門野《かどの》に連《つ》れられて、廊下|伝《づた》ひに這入つて来《き》た。銘仙《めいせん》の紺絣《こんがすり》に、唐草《からくさ》模様の一重《ひとえ》帯を締《し》めて、此前とは丸で違《ちが》つた服装《なり》をしてゐるので、一目《ひとめ》見た代助には、新《あた》らしい感《かん》じがした。色《いろ》は不断の通り好《よ》くなかつたが、座敷の入口《いりぐち》で、代助と顔《かほ》を合《あは》せた時、眼《め》も眉《まゆ》も口《くち》もぴたりと活動を中止した様に固《かた》くなつた。敷居《しきゐ》に立《た》つてゐる間《あひだ》は、足《あし》も動《うご》けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固《もと》より手紙を見た時から、何事をか予期して来《き》た。其予期のうちには恐れと、喜《よろこび》と、心配とがあつた。車から降《お》りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其《その》予期の色をもつて漲《みなぎ》つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと留《と》まつた。代助の様子は三千代に夫丈の打衝《シヨツク》を与へる程に強烈であつた。
 代助は椅子の一つを指《ゆび》さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は其向《そのむかふ》に席を占《し》めた。二人《ふたり》は始めて相対した。然し良《やゝ》少時《しばら》くは二人《ふたり》とも、口《くち》を開《ひら》かなかつた。
「何《なに》か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、
「えゝ」と云つた。二人《ふたり》は夫限《それぎり》で、又しばらく雨《あめ》の音《おと》を聴いた。
「何《なに》か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「えゝ」と云つた。双方共|何時《いつ》もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼《かね》て覚悟をして居《ゐ》た。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、始《はじ》めて、一滴《いつてき》の酒精が恋《こひ》しくなつた。ひそかに次《つぎ》の間《ま》へ立《た》つて、例《いつも》のヰスキーを洋盃《コツプ》で傾《かたむ》け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下《もと》に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠《まこと》でないと信じたからである。酔《よひ》と云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄《たくわ》へぬ積であつた。否、彼《かれ》をして卑吝《ひりん》に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾《かたむ》ける事が出来なかつた。二度|聞《き》かれた時に猶※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇した。三度目には、已《やむ》を得ず、
「まあ、緩《ゆつ》くり話《はな》しませう」と云つて、巻烟草《まきたばこ》に火を点《つ》けた。三千代の顔《かほ》は返事を延《の》ばされる度《たび》に悪《わる》くなつた。
 雨は依然として、長《なが》く、密《みつ》に、物に音《おと》を立てゝ降《ふ》つた。二人《ふたり》は雨の為《ため》に、雨の持ち来《きた》す音《おと》の為《ため》に、世間《せけん》から切り離された。同じ家《いへ》に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人《ふたり》は孤立の儘、白百合の香《か》の中《なか》に封じ込められた。
「先刻《さつき》表へ出《で》て、あの花を買つて来《き》ました」と代助は自分の周囲を顧《かへり》みた。三千代の眼《め》は代助に随《つ》いて室《へや》の中《なか》を一回《ひとまはり》した。其|後《あと》で三千代は鼻から強く息《いき》を吸《す》ひ込んだ。
「兄《にい》さんと貴方《あなた》と清水《しみづ》町にゐた時分の事を思ひ出《だ》さうと思つて、成るべく沢山買つて来《き》ました」と代助が云つた。
「好《い》い香《にほひ》ですこと」と三千代は翻《ひる》がへる様に綻《ほころ》びた大きな花瓣《はなびら》を眺《なが》めてゐたが、夫《それ》から眼《め》を放《はな》して代助に移した時、ぽうと頬《ほゝ》を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて已《や》めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方《あなた》は派手な半襟を掛《か》けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立《きたて》だつたんですもの。ぢき已《や》めて仕舞つたわ」
「此間《このあひだ》百合の花を持つて来《き》て下《くだ》さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時|限《ぎり》なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度《たく》なつたんですか」
「えゝ、気迷《きまぐ》れに一寸《ちよいと》結《ゆ》つて見たかつたの」
「僕はあの髷《まげ》を見て、昔《むかし》を思ひ出した」
「さう」と三千代は恥《は》づかしさうに肯《うけが》つた。
 三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口《くち》を聞く様になつてからの事だが、始めて国《くに》から出て来《き》た当時の髪《かみ》の風を代助から賞《ほ》められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後《あと》でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人《ふたり》は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共|口《くち》へ出《だ》しては何も語らなかつた。

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