2008年11月12日水曜日

十四の四

 代助の方では、もう云ふ可《べ》き事《こと》を云ひ尽《つ》くした様な気がした。少《すく》なくとも、是《これ》より進《すゝ》んで、梅子に自分を説明しやうといふ考は丸で無《な》かつた。梅子は語《かた》るべき事《こと》、聞《き》くべき事《こと》を沢山《たくさん》持《も》つてゐた。たゞ夫《それ》が咄嗟《とつさ》の間《あひだ》に、前《まへ》の問答《もんどう》に繋《つな》がり好《よ》く、口《くち》へ出《で》て来《こ》なかつたのである。
「貴方《あなた》の知《し》らない間《ま》に、縁談が何《ど》れ程|進《すゝ》んだのか、私《わたし》にも能《よ》く分《わか》らないけれど、誰《だれ》にしたつて、貴方《あなた》が、さう的確《きつぱり》御断《おことわ》りなさらうとは思ひ掛《が》けないんですもの」と梅子は漸《やうや》くにして云つた。
「何故《なぜ》です」と代助は冷《ひやゝ》かに落《お》ち付《つ》いて聞《き》いた。梅子は眉を動《うご》かした。
「何故《なぜ》ですつて聞《き》いたつて、理窟ぢやありませんよ」
「理窟でなくつても構《かま》はないから話《はな》して下《くだ》さい」
「貴方《あなた》の様にさう何遍|断《ことわ》つたつて、詰《つま》り同《おんな》じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の頭《あたま》には響《ひゞ》かなかつた。不可解《ふかかい》の眼《め》を挙《あ》げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍しに掛《か》かつた。
「つまり、貴方《あなた》だつて、何時《いつ》か一度は、御奥さんを貰《もら》ふ積《つもり》なんでせう。厭《いや》だつて、仕方がないぢやありませんか。其様《さう》何時迄《いつまで》も我儘を云つた日には、御父《おとう》さんに済《す》まない丈ですわ。だからね。何《ど》うせ誰《だれ》を持《も》つて行《い》つても気《き》に入らない貴方《あなた》なんだから、つまり誰《だれ》を持《も》たしたつて同《おんな》じだらうつて云ふ訳なんです。貴方《あなた》には何《ど》んな人《ひと》を見せても駄目なんですよ。世の中《なか》に一人《ひとり》も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云ふものは、始《はじ》めから気に入らないものと、諦《あき》らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから私《わたし》達が一番|好《い》いと思ふのを、黙《だま》つて貰《もら》へば、夫で何所《どこ》も彼所《かしこ》も丸く治《おさ》まつちまふから、――だから、御父《おとう》さんが、殊によると、今度《こんど》は、貴方《あなた》に一から十迄相談して、何《なに》か為《な》さらないかも知れませんよ。御父《おとう》さんから見れば夫《それ》が当り前ですもの。さうでも、為《し》なくつちや、生《い》きてる内《うち》に、貴方《あなた》の奥《おく》さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか」
 代助は落ち付いて嫂《あによめ》の云ふ事を聴《き》いてゐた。梅子《うめこ》の言葉が切れても、容易に口《くち》を動《うご》かさなかつた。若《も》し反駁《はんぱく》をする日には、話《はなし》が段々込み入る許《ばかり》で、此方《こちら》の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云ひ分《ぶん》を肯《うけが》ふ気は丸でなかつた。実際問題として、双方が困《こま》る様になる許《ばかり》と信じたからである。それで、嫂《あによめ》に向つて、
「貴方《あなた》の仰《おつ》しやる所も、一理あるが、私《わたし》にも私《わたし》の考があるから、まあ打遣《うちや》つて置《お》いて下《くだ》さい」と云つた。其調子には梅子《うめこ》の干渉を面倒がる気色《けしき》が自然と見えた。すると梅子は黙《だま》つてゐなかつた。
「そりや代《だい》さんだつて、小供ぢやないから、一人前《いちにんまへ》の考の御有《おあり》な事は勿論ですわ。私《わたし》なんぞの要《い》らない差出口《さしでぐち》は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御|父《とう》さんの身になつて御覧なさい。月々《つき/″\》の生活費は貴方《あなた》の要《い》ると云ふ丈今でも出《だ》して入《い》らつしやるんだから、つまり貴方《あなた》は書生時代よりも余計|御父《おとう》さんの厄介になつてる訳《わけ》でせう。さうして置いて、世話になる事は、元《もと》より世話になるが、年を取つて一人前《いちにんまへ》になつたから、云ふ事は元《もと》の通りには聞《き》かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
 梅子は少し激したと見えて猶も云ひ募らうとしたのを、代助が遮つた。
「だつて、女房を持てば此|上《うへ》猶御|父《とう》さんの厄介に為《な》らなくつちや為《な》らないでせう」
「宜《い》いぢやありませんか、御父《おとう》さんが、其方《そのほう》が好《い》いと仰しやるんだから」
「ぢや、御父《おとう》さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非|持《も》たせる決心なんですね」
「だつて、貴方《あなた》に好《す》いたのがあればですけれども、そんなのは日本中|探《さが》して歩《ある》いたつて無《な》いんぢやありませんか」
「何《ど》うして、夫《それ》が分《わか》ります」
 梅子は張《はり》の強い眼《め》を据ゑて、代助を見た。さうして、
「貴方《あなた》は丸で代言人の様な事を仰しやるのね」と云つた。代助は蒼白《あをじろ》くなつた額《ひたひ》を嫂《あによめ》の傍《そば》へ寄《よ》せた。
「姉《ねえ》さん、私《わたし》は好《す》いた女があるんです」と低《ひく》い声で云ひ切つた。

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