2008年11月12日水曜日

十二の六

 食卓《しよくたく》は、人数《にんず》が人数《にんず》だけに、左程大きくはなかつた。部屋の広《ひろ》さに比例して、寧《むし》ろ小《ち》さ過《すぎ》る位であつたが、純白《じゆんぱく》な卓布を、取り集めた花で綴《つゞ》つて、其中《そのなか》に肉刀《ナイフ》と肉匙《フオーク》の色《いろ》が冴《さ》えて輝《かゞや》いた。
 卓上の談話は重《おも》に平凡な世間|話《ばなし》であつた。始《はじめ》のうちは、それさへ余《あま》り興味が乗《の》らない様に見えた。父《ちゝ》は斯《か》う云ふ場合には、よく自分の好《す》きな書画骨董の話《はなし》を持ち出《だ》すのを常《つね》としてゐた。さうして気《き》が向《む》けば、いくらでも、蔵《くら》から出《だ》して来《き》て、客《きやく》の前《まへ》に陳《なら》べたものである。父《ちゝ》の御蔭《おかげ》で、代助は多少|斯道《このみち》に好悪《こうお》を有《も》てる様になつてゐた。兄《あに》も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、此方《このほう》は掛物《かけもの》の前《まへ》に立つて、はあ仇英《きうえい》だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。面白《おもしろ》い顔《かほ》もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから真偽《しんぎ》の鑑定の為《ため》に、虫眼鏡《むしめがね》などを振《ふ》り舞《ま》はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。父《ちゝ》の様に、こんな波《なみ》は昔《むかし》の人《ひと》は描《か》かないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。
 父《ちゝ》は乾《かは》いた会話《くわいわ》に色彩《しきさい》を添《そ》へるため、やがて好《す》きな方面の問題に触《ふ》れて見た。所が一二言《いちにげん》で、高木はさう云ふ事《こと》に丸《まる》で無頓着な男であるといふ事が分《わか》つた。父《ちゝ》は老巧の人《ひと》だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。父《ちゝ》は已《やむ》を得ず、高木に何《ど》んな娯楽があるかを確《たしか》めた。高木は特別に娯楽を持《も》たない由《よし》を答へた。父《ちゝ》は万事休すといふ体裁で、高木を誠吾と代助に托して、しばらく談話の圏外に出《で》た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋《やどや》やら、楠公神社やら、手当り次第に話題を開拓して行つた。さうして、其中《そのうち》に自然令嬢の演ずべき役割を拵《こしら》えた。令嬢はたゞ簡単に、必要な言葉丈を点じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亜米利加の大学の状況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が出《で》た。代助は、高木に斯《か》う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈で、それより以上に深入《ふかいり》もしなかつた。従つて文学談は単に二三の人名と書名に終つて、少しも発展しなかつた。
 梅子は固より初《はじめ》から断《た》えず口《くち》を動《うご》かしてゐた。其努力の重《おも》なるものは、無論自分の前にゐる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令嬢は礼義上から云つても、梅子の間断《かんだん》なき質問に応じない訳に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の心《こゝろ》を動《うご》かさうと力《つと》めた形迹は殆んどなかつた。たゞ物《もの》を云ふときに、少し首《くび》を横《よこ》に曲《ま》げる癖《くせ》があつた。それすらも代助には媚《こび》を売《う》るとは解釈|出来《でき》なかつた。
 令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、始《はじ》めは琴《こと》を習つたが、後にはピヤノに易《か》えた。※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]イオリンも少し稽古《けいこ》したが、此方《このほう》は手の使《つか》い方《かた》が六※[#小書き濁点付き平仮名つ、218-1]かしいので、まあ遣《や》らないと同じである。芝居は滅多に行つた事がなかつた。
「先達《せんだつ》ての歌舞伎座は如何《いかゞ》でした」と梅子が聞《き》いた時、令嬢は何とも答へなかつた。代助には夫《それ》が劇を解《かい》しないと云ふより、劇を軽蔑してゐる様に取れた。それだのに、梅子はつゞけて、同じ問題に就《つ》いて、甲の役者は何《ど》うだの、乙の役者は何《なん》だのと評し出《だ》した。代助は又|嫂《あによめ》が論理を踏《ふ》み外《はづ》したと思つた。仕方がないから、横合《よこあひ》から、
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と聞《き》いて芝居の話を已めさした。令嬢は其時始めて、一寸《ちよつと》代助の方を見た。けれども答は案外に判然《はつきり》してゐた。
「いえ小説も」
 令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を出《だ》して笑つた。高木は令嬢の為《ため》に説明の労を取つた。その云ふ所によると、令嬢の教育を受けたミス何《なん》とか云ふ婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど清教徒《ピユリタン》の様に仕込まれてゐるのださうであつた。だから余程時代|後《おく》れだと、高木は説明のあとから批評さへ付《つ》け加へた。其時は無論|誰《だれ》も笑はなかつた。耶蘇教に対して、あまり好意を有《も》つてゐない父《ちゝ》は、
「それは結構だ」と賞《ほ》めた。梅子は、さう云ふ教育の価値を全く解《かい》する事が出来《でき》なかつた。にも拘はらず、
「本当にね」と趣味に適《かな》はない不得要領の言葉を使《つか》つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与へない様に、すぐ問題を易えた。
「ぢや英語は御上手でせう」
 令嬢はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。

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