2008年11月13日木曜日

九の二

 今日《けふ》はわざ/\其為《そのため》に来《き》たのだから、否《いや》でも応でも父《ちゝ》に逢はなければならない。相変らず、内《ない》玄関の方から廻つて座敷へ来《く》ると、珍《めづ》らしく兄《あに》の誠吾が胡坐《あぐら》をかいて、酒《さけ》を呑んでゐた。梅子も傍《そば》に坐《すは》つてゐた。兄《あに》は代助を見て、
「何《ど》うだ、一盃|遣《や》らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜《びん》を持つて振《ふ》つて見せた。中《なか》にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を敲《たゝ》いて洋盞《コツプ》を取り寄せた。
「当《あ》てゝ御|覧《らん》なさい。どの位|古《ふる》いんだか」と一杯|注《つ》いだ。
「代助に分《わか》るものか」と云つて、誠吾は弟の唇《くちびる》のあたりを眺《なが》めてゐた。代助は一口《ひとくち》飲《の》んで盃《さかづき》を下《した》へ下《おろ》した。肴《さかな》の代りに薄いウエーファーが菓子|皿《ざら》にあつた。
「旨《うま》いですね」と云つた。
「だから時代を当《あ》てゝ御覧なさいよ」
「時代《じだい》があるんですか。偉《えら》いものを買ひ込んだもんだね。帰《かへ》りに一本《いつぽん》貰《もら》つて行《い》かう」
「御生憎様、もう是限《これぎり》なの。到来物《とうらいもの》よ」と云つて梅子は椽側へ出《で》て、膝《ひざ》の上《うへ》に落《お》ちたウエーフアーの粉《こ》を払《はた》いた。
「兄《にい》さん、今日《けふ》は何《ど》うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が聞《き》いた。

「今日《けふ》は休養だ。此間中《このあひだぢう》は何《ど》うも忙《いそが》し過《すぎ》て降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻《はまき》を口《くち》に啣えた。代助は自分の傍《そば》にあつた燐寸《まつち》を擦《す》つて遣《や》つた。
「代《だい》さん貴方《あなた》こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から帰《かへ》つて来《き》た。
「姉《ねえ》さん歌舞伎座へ行《い》きましたか。まだなら、行《い》つて御覧なさい。面白いから」
「貴方《あなた》もう行《い》つたの、驚ろいた。貴方《あなた》も余《よ》っ程|怠《なま》けものね」
「怠《なま》けものは可《よ》くない。勉強の方向が違ふんだから」
「押《おし》の強い事ばかり云つて。人《ひと》の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤《あか》い瞼《まぶた》をして、ぽかんと葉巻《はまき》の烟《けむ》を吹《ふ》いてゐた。
「ねえ、貴方《あなた》」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに葉巻《はまき》を指《ゆび》の股《また》へ移して、
「今のうち沢山《たんと》勉強して貰《もら》つて置いて、今《いま》に此方《こつち》が貧乏したら、救《すく》つて貰《もら》ふ方が好《い》いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞《コツプ》を姉の前に出《だ》した。梅子も黙《だま》つて葡萄酒の壜を取り上《あ》げた。
「兄《にい》さん、此間中《このあひだぢう》は何だか大変|忙《いそが》しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転《ねころ》んで仕舞つた。
「何《なに》か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙《いそが》しかつた」
 兄《あに》の答は何時《いつ》でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽《らく》に其返事の中《なか》に這入《はいつ》てゐた。
「日糖も詰《つま》らない事《こと》になつたが、あゝなる前に何《ど》うか方法はないもんでせうかね」
「左《さ》うさなあ。実際|世《よ》の中《なか》の事は、何《なに》が何《ど》うなるんだか分《わか》らないからな。――梅《うめ》、今日《けふ》は直木《なほき》に云ひ付《つ》けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可《いけな》いよ。あゝ大食《おほぐひ》をして寐て許《ばかり》ゐちや毒だ」と誠吾は眠《ねむ》さうな瞼《まぶた》を指《ゆび》でしきりに擦《こす》つた。代助は、
「愈《いよ/\》奥《おく》へ行《い》つて御父《おとう》さんに叱《しか》られて来《く》るかな」と云ひながら又|洋盞《コツプ》を嫂《あによめ》の前へ出《だ》した。梅子は笑《わら》つて酒《さけ》を注《つ》いだ。
「嫁《よめ》の事か」と誠吾が聞《き》いた。
「まあ、左《さ》うだらうと思ふんです」
「貰《もら》つて置《お》くがいゝ。さう老人《としより》に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然《はつきり》した語勢で、
「気を付《つ》けないと不可《いかん》よ。少し低気圧が来《き》てゐるから」と注意した。代助は立《た》ち掛けながら、
「まさか此間中《このあひだぢう》の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄《あに》は寐転んだ儘、
「何《なん》とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時《いつ》拘引されるか分《わか》らない身体《からだ》なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を仰《おつ》しやるなよ」と梅子が窘《たしな》めた。
「矢っ張り僕《ぼく》ののらくらが持ち来《き》たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。

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