2008年11月12日水曜日

十五の三

 其|夕方《ゆふがた》始めて父《ちゝ》からの報知《しらせ》に接した。其時代助は婆さんの給仕で飯《めし》を食《く》つてゐた。茶碗を膳の上《うへ》へ置いて、門野《かどの》から手紙を受取つて読むと、明朝何時迄に御|出《いで》の事といふ文句があつた。代助は、
「御役所風だね」と云ひながら、わざと端書《はがき》を門野《かどの》に見せた。門野《かどの》は、
「青山《あをやま》の御宅《おたく》からですか」と叮嚀に眺めてゐたが、別に云ふ事がないものだから、表《おもて》を引つ繰り返して、
「何《ど》うも何《なん》ですな。昔《むかし》の人《ひと》は矢っ張り手蹟《て》が好《い》い様ですな」と御世辞を置き去《ざ》りにして出て行つた。婆さんは先刻《さつき》から暦《こよみ》の話《はなし》をしきりに為《し》てゐた。みづのえ[#「みづのえ」に傍点]だのかのと[#「かのと」に傍点]だの、八朔だの友引《ともびき》だの、爪《つめ》を切《き》る日だの普請をする日だのと頗る煩《うるさ》いものであつた。代助は固より上《うは》の空《そら》で聞《き》いてゐた。婆さんは又|門野《かどの》の職《しよく》の事を頼《たの》んだ。十五円でも宜《い》いから何方《どつか》へ出《だ》して遣《や》つて呉れないかと云つた。代助は自分ながら、何《ど》んな返事をしたか分《わか》らない位気にも留《と》めなかつた。たゞ心《こゝろ》のうちでは、門野|所《どころ》か、この己《おれ》が危《あや》しい位だと思つた。
 食事《しよくじ》を終るや否や、本郷から寺尾が来《き》た。代助は門野の顔《かほ》を見て暫らく考へてゐた。門野《かどの》は無雑作に、
「断《ことわ》りますか」と聞いた。代助は此間から珍らしくある会《くわい》を一二回欠席した。来客も逢《あ》はないで済《す》むと思ふ分は両度程謝絶した。
 代助は思ひ切つて寺尾に逢つた。寺尾は何時《いつ》もの様に、血眼《ちまなこ》になつて、何か探《さが》してゐた。代助は其様子を見て、例の如く皮肉で持ち切る気にもなれなかつた。翻訳だらうが焼き直しだらうが、生きてゐるうちは何処《どこ》迄も遣《や》る覚悟だから、寺尾の方がまだ自分より社会の児《じ》らしく見えた。自分がもし失脚して、彼と同様の地位に置かれたら、果して何《ど》の位の仕事に堪えるだらうと思ふと、代助は自分に対して気の毒になつた。さうして、自分が遠からず、彼《かれ》よりも甚《ひど》く失脚するのは、殆んど未発の事実の如く確《たしか》だと諦めてゐたから、彼は侮蔑の眼《め》を以て寺尾を迎へる訳には行かなかつた。
 寺尾は、此間の翻訳を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋迄出版を見合せると云ひ出したので、すぐ労力を金《かね》に換算する事が出来ずに、困つた結果|遣《や》つて来《き》たのであつた。では書肆と契約なしに手を着《つ》けたのかと聞《き》くと、全く左様《さう》でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸で約束を無|視《し》した様にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事丈は事実らしかつた。けれども斯《か》う云ふ手違《てちがひ》に慣れ抜《ぬ》いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を抱《いだ》いてゐる様には見えなかつた。失敬だとか怪《け》しからんと云ふのは、たゞ口《くち》の先許《さきばかり》で、腹《はら》の中《なか》の屈托は、全然|飯《めし》と肉《にく》に集注してゐるらしかつた。
 代助は気の毒になつて、当座の経済に幾分の補助を与へた。寺尾は感謝の意を表して帰つた。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは疾《とく》の昔《むかし》に使《つか》つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の帰つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ斯《か》う楽に活計《くらし》てゐたつて決して為《な》れる訳のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の下《もと》に呻吟してゐるんではなからうかと考へて茫乎《ぼんやり》した。
 代助は其晩《そのばん》自分の前途をひどく気に掛けた。もし父《ちゝ》から物質的に供給の道を鎖《とざ》された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを疑《うたぐ》つた。もし筆を執つて寺尾の真似さへ出来なかつたなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を執《と》らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。
 彼は眼《め》を開《あ》けて時々《とき/″\》蚊帳《かや》の外《そと》に置《お》いてある洋燈《ランプ》を眺めた。夜中《よなか》に燐寸《マツチ》を擦《す》つて烟草《たばこ》を吹《ふ》かした。寐返りを何遍も打つた。固より寐《ね》苦しい程暑い晩ではなかつた。雨が又ざあ/\と降《ふ》つた。代助は此雨の音《おと》で寐《ね》付くかと思ふと、又雨の音《おと》で不意に眼《め》を覚《さ》ました。夜は半醒半睡のうちに明け離れた。

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