2008年11月12日水曜日

十四の二

 斯《か》う決心した翌日《よくじつ》、代助は久し振《ぶ》りに髪《かみ》を刈《か》つて髯《ひげ》を剃《そ》つた。梅雨《つゆ》に入つて二三日|凄《すさ》まじく降《ふ》つた揚句なので、地面《ぢめん》にも、木《き》の枝にも、埃《ほこり》らしいものは悉《ことごと》くしつとりと静《しづ》まつてゐた。日《ひ》の色《いろ》は以前より薄《うす》かつた。雲《くも》の切《き》れ間《ま》から、落ちて来《く》る光線は、下界《げかい》の湿《しめ》り気《け》のために、半ば反射力を失つた様に柔らかに見えた。代助は床屋《とこや》の鏡《かゞみ》で、わが姿《すがた》を映《うつ》しながら、例の如くふつくらした頬《ほゝ》を撫《な》でゝ、今日《けふ》から愈積極的生活に入るのだと思つた。
 青山へ来《き》て見ると、玄関に車《くるま》が二台程あつた。供待《ともまち》の車夫は蹴込《けこみ》に倚《よ》り掛《かゝ》つて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が新聞《しんぶん》を膝《ひざ》の上《うへ》へ乗《の》せて、込《こ》み入つた庭《には》の緑《みどり》をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと眠《ね》むさうであつた。代助はいきなり梅子《うめこ》の前へ坐《すは》つた。
「御父《おとう》さんは居《ゐ》ますか」
 嫂《あによめ》は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の眼《め》で見た。
「代さん、少し瘠《や》せた様ぢやありませんか」と云つた。代助は又|頬《ほゝ》を撫《な》でて、
「そんな事も無《な》いだらう」と打ち消した。
「だつて、色沢《いろつや》が悪《わる》いのよ」と梅子は眼《め》を寄《よ》せて代助の顔《かほ》を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「庭《には》の所為《せゐ》だ。青葉《あをば》が映《うつ》るんだ」と庭《には》の植込《うゑごみ》の方を見たが、「だから貴方《あなた》だつて、矢《や》っ張《ぱ》り蒼《あを》いですよ」と続《つゞ》けた。
「私《わたし》、此二三|日《にち》具合が好《よ》くないんですもの」
「道理《どうり》でぽかんとして居《ゐ》ると思《おも》つた。何《ど》うかしたんですか。風邪《かぜ》ですか」
「何《なん》だか知らないけれど生欠許《なまあくびばか》り出《で》て」
 梅子は斯《か》う答へて、すぐ新聞を膝《ひざ》から卸《おろ》すと、手を鳴らして、小間使《こまづかひ》を呼んだ。代助は再び父《ちゝ》の在《ざい》、不在《ふざい》を確《たしか》めた。梅子は其|問《とひ》をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄関にあつた車は、父《ちゝ》の客《きやく》の乗《の》つて来《き》たものであつた。代助は長《なが》く懸《か》ゝらなければ、客《きやく》の帰る迄|待《ま》たうと思つた。嫂《あによめ》は判然《はつきり》しないから、風呂場へ行《い》つて、水《みづ》で顔を拭《ふ》いて来《く》ると云つて立つた。下女が好《い》い香《にほひ》のする葛《くづ》の粽《ちまき》を、深《ふか》い皿《さら》に入れて持《も》つて来《き》た。代助は粽《ちまき》の尾をぶら下《さ》げて、頻《しき》りに嗅《か》いで見《み》た。
 梅《うめ》子が涼《すゞ》しい眼付《めつき》になつて風呂場から帰つた時、代助は粽《ちまき》の一《ひと》つを振子《ふりこ》の様に振《ふ》りながら、今度は、
「兄《にい》さんは何《ど》うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽|鼻《ばな》に立《た》つて、庭《には》を眺《なが》めてゐたが、
「二三日の雨《あめ》で、苔《こけ》の色《いろ》が悉皆《すつかり》出《で》た事《こと》」と平生に似合はぬ観察をして、故《もと》の席《せき》に返《かへ》つた。さうして、
「兄《にい》さんが何《ど》うしましたつて」と聞き直《なほ》した。代助は先《さき》の質問を繰り返した時、嫂《あによめ》は尤も無頓着な調子で、
「何《ど》うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守|勝《がち》ですか」
「えゝ、えゝ、朝《あさ》も晩《ばん》も滅多に宅《うち》に居た事はありません」
「姉《ねえ》さんは夫《それ》で淋《さむ》しくはないですか」
「今更《いまさら》改《あらた》まつて、そんな事《こと》を聞《き》いたつて仕方《しかた》がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出《だ》した。調戯《からか》ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色《けしき》はなかつた。代助も平生の自分を振《ふ》り返つて見て、真面目《まじめ》に斯《こ》んな質問を掛《か》けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日《こんにち》迄|兄《あに》と嫂《あによめ》の関係を長い間《あひだ》目撃してゐながら、ついぞ其所《そこ》には気が付《つ》かなかつた。嫂《あによめ》も亦代助の気が付《つ》く程物足りない素振《そぶり》は見せた事がなかつた。
「世間《せけん》の夫|婦《ふ》は夫《それ》で済《す》んで行《い》くものかな」と独言《ひとりごと》の様に云つたが、別に梅子の返事を予期する気もなかつたので、代助は向《むかふ》の顔《かほ》も見ず、たゞ畳の上《うへ》に置いてある新聞《しんぶん》に眼《め》を落《おと》した。すると梅子は忽ち、
「何《なん》ですつて」と切《き》り込む様に云つた。代助の眼《め》が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、貴方《あなた》が奥さんを御貰《おもら》ひなすつたら、始終|宅《うち》に許《ばかり》ゐて、たんと可愛《かあい》がつて御上《おあ》げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく不断《ふだん》の調子を出《だ》さうと力《つと》めた。

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