2008年11月14日金曜日

一の二

 約《やく》三十分の後《のち》彼は食卓に就いた。熱《あつ》い紅茶を啜《すゝ》りながら焼麺麭《やきぱん》に牛酪《バタ》を付けてゐると、門野《かどの》と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の傍《わき》へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を捕《つら》まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に限《かぎ》つて、平気に先生として通《とほ》してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして麺麭《ぱん》を食《く》つて居た。
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と嬉《うれ》しがつてゐる。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる事《こと》でもあるんですか」
「冗談云つちや不可《いけ》ません。さう損得《そんとく》づくで、痛快がられやしません」
 代助は矢つ張り麺麭《ぱん》を食《く》つてゐた。
「君、あれは本当に校長が悪《にく》らしくつて排斥するのか、他《ほか》に損得《そんとく》問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の中《なか》へ注《さ》した。
「知りませんな。何《なん》ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得《とく》にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、左様《そん》なもんですかな」と門野《かどの》は稍|真面目《まじめ》な顔をした。代助はそれぎり黙《だま》つて仕舞つた。門野《かどの》は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ左様《そん》なもんですかなで押し通して澄《す》ましてゐる。此方《こちら》の云ふことが応《こた》へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、其所《そこ》が漠然として、刺激が要《い》らなくつて好《い》いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、一日《いつにち》ごろ/\してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると門野《かどの》は何時《いつ》でも、左様《さう》でせうか、とか、左様《そん》なもんでせうか、とか答《こた》へる丈である。決して為《し》ませうといふ事は口《くち》にしない。又かう、怠惰《なまけ》ものでは、さう判然《はつきり》した答《こたへ》が出来ないのである。代助の方でも、門野《かどの》を教育しに生《うま》れて来《き》た訳でもないから、好加減《いゝかげん》にして放《ほう》つて置く。幸《さいは》ひ頭《あたま》と違《ちが》つて、身体《からだ》の方は善く動《うご》くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも門野《かどの》の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと門野《かどの》とは頗る仲《なか》が好《い》い。主人の留守などには、よく二人《ふたり》で話をする。
「先生は一体《いつたい》何《なに》を為《す》る気なんだらうね。小母《おば》さん」
「あの位《くらゐ》になつて入らつしやれば、何《なん》でも出来《でき》ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。何《なに》か為《し》たら好《よ》ささうなもんだと思ふんだが」
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも御探《おさが》しなさる御積りなんでせうよ」
「いゝ積《つも》りだなあ。僕も、あんな風に一日《いちんち》本《ほん》を読んだり、音楽を聞きに行つたりして暮《くら》して居たいな」
「御前《おまへ》さんが?」
「本《ほん》は読まんでも好《い》いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」
「夫《それ》はみんな、前世《ぜんせ》からの約束だから仕方がない」
「左様《そん》なものかな」
 まづ斯う云ふ調子である。門野《かどの》が代助の所へ引き移る二週|間《かん》前には、此若い独身の主人と、此|食客《ゐさうらふ》との間に下の様な会話があつた。

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