2008年11月12日水曜日

十四の五

 代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を廻《まは》して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂|好《す》いた女は、梅子に対して一向|利目《きゝめ》がなくなつた。代助がそれを云ひ出《だ》しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも夫《それ》で平気であつた。然し此場合丈は彼《かれ》に取つて、全く特別であつた。顔付《かほつき》と云ひ、眼付《めつき》と云ひ、声の低《ひく》い底《そこ》に籠《こも》る力《ちから》と云ひ、此所《こゝ》迄押し逼《せま》つて来《き》た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。嫂《あによめ》は此|短《みじか》い句《く》を、閃《ひら》めく懐剣の如くに感じた。
 代助は帯《おび》の間《あひだ》から時計を出して見た。父《ちゝ》の所へ来《き》てゐる客は中々《なか/\》帰りさうにもなかつた。空《そら》は又|曇《くも》つて来《き》た。代助は一旦引き上《あ》げて又|改《あら》ためて、父《ちゝ》と話《はなし》を付《つ》けに出直《でなほ》す方が便宜だと考《かんが》へた。
「僕は又|来《き》ます。出直《でなほ》して来《き》て御父《おとう》さんに御目に掛《かゝ》る方が好《い》いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其|間《あひだ》に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で投《な》げる事の出来ない女であつた。抑《おさ》える様に代助を引《ひ》き留《と》めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫《それ》でも応じなかつた。すると梅子は何故《なぜ》其女を貰《もら》はないのかと聞き出《だ》した。代助は単純に貰《もら》へないから、貰《もら》はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他《ひと》の尽力を出《だ》し抜《ぬ》いたと云つて恨んだ。何故《なぜ》始《はじめ》から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語《かた》らなかつた。梅子はとう/\我《が》を折つた。代助の愈《いよ/\》帰ると云ふ間際《まぎは》になつて、
「ぢや、貴方《あなた》から直《ぢか》に御父《おとう》さんに御話《おはなし》なさるんですね。それ迄は私《わたくし》は黙《だま》つてゐた方が好《い》いでせう」と聞いた。代助は黙《だま》つてゐて貰《もら》ふ方が好《い》いか、話《はな》して貰《もら》ふ方が好《い》いか、自分にも分《わか》らなかつた。
「左様《さう》ですね」と※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇《ちうちよ》したが、「どうせ、断《ことわ》りに来《く》るんだから」と云つて嫂《あによめ》の顔《かほ》を見《み》た。
「ぢや、若《も》し話《はな》す方が都合が好《よ》ささうだつたら話《はな》しませう。もし又|悪《わ》るい様だつたら、何にも云はずに置くから、貴方《あなた》が始《はじめ》から御話《おはなし》なさい。夫《それ》が宜《い》いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、
「何分《なにぶん》宜《よろ》しく」と頼《たの》んで外《そと》へ出《で》た。角《かど》へ来《き》て、四谷《よつや》から歩《ある》く積《つもり》で、わざと、塩《しほ》町|行《ゆき》の電車に乗《の》つた。練兵場の横《よこ》を通るとき、重《おも》い雲《くも》が西で切れて、梅雨《つゆ》には珍《めづ》らしい夕《せき》陽が、真赤《まつか》になつて広《ひろ》い原《はら》一面《いちめん》を照《て》らしてゐた。それが向《むかふ》を行《ゆ》く車《くるま》の輪《わ》に中《あた》つて、輪《わ》が回《まは》る度《たび》に鋼鉄《はがね》の如く光《ひか》つた。車《くるま》は遠い原《はら》の中《なか》に小《ちい》さく見えた。原《はら》は車《くるま》の小《ちい》さく見《み》える程、広《ひろ》かつた。日《ひ》は血《ち》の様に毒々しく照《て》つた。代助は此光|景《けい》を斜《なゝ》めに見《み》ながら、風《かぜ》を切《き》つて電車に持つて行《い》かれた。重《おも》い頭《あたま》の中《なか》がふら/\した。終点迄|来《き》た時は、精神が身体《からだ》を冒《おか》したのか、精神の方が身体《からだ》に冒されたのか、厭《いや》な心持がして早く電車を降《お》りたかつた。代助は雨《あめ》の用心に持つた蝙蝠傘《かうもりがさ》を、杖の如く引き摺《ず》つて歩《ある》いた。
 歩《ある》きながら、自分《じぶん》は今日《けふ》、自《みづか》ら進んで、自分の運命の半分《はんぶん》を破壊したのも同じ事だと、心のうちに囁《つぶや》いだ。今迄は父《ちゝ》や嫂《あによめ》を相手に、好い加減な間隔《かんかく》を取つて、柔らかに自我を通《とほ》して来《き》た。今度は愈本性を露《あら》はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を求《もと》め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、夫《それ》には又|父《ちゝ》を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の我《われ》を冷笑した。彼は何《ど》うしても、今日《けふ》の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、掩《お》つ被《かぶ》さる様に烈しく働《はたら》き掛けたかつた。
 彼は此次《このつぎ》父《ちゝ》に逢ふときは、もう一歩《いつぽ》も後《あと》へ引けない様に、自分の方を拵《こしら》えて置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又|父《ちゝ》から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日《けふ》嫂《あによめ》に、自分の意思を父《ちゝ》に話《はな》す話《はな》さないの自由を与へたのを悔いた。今夜《こんや》にも話《はな》されれば、明日《あした》の朝《あさ》呼《よ》ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し夜《よる》だから都合がよくないと思つた。

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