2008年11月12日水曜日

十三の七

 代助は平岡の言語《げんご》の如何《いかん》に拘《かゝ》はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極《き》めた。なまじい、借金の催促に来《き》たんぢやない抔と弁明《べんめい》すると、又平岡が其|裏《うら》を行《ゆ》くのが癪《しやく》だから、向ふの疳違《かんちがひ》は、疳違《かんちがひ》で構《かま》はないとして置《お》いて、此方《こつち》は此方《こつち》の歩《ほ》を進める態度《たいど》に出《で》た。けれども第一に困《こま》つたのは、平岡の勝手|元《もと》の都合を、三千代の訴《うつた》へによつて知《し》つたと切《き》り出《だ》しては、三千代に迷惑《めいわく》が掛《かゝ》るかも知れない。と云つて、問題が其所《そこ》に触《ふ》れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方《しかた》なしに迂回《うくわい》した。
「君《きみ》は近来|斯《か》う云ふ所へ大分《だいぶ》頻繁《ひんぱん》に出《で》はいりをすると見《み》えて、家《うち》のものとは、みんな御|馴染《なじみ》だね」
「君《きみ》の様に金回《かねまは》りが好《よ》くないから、さう豪遊も出来ないが、交際《つきあひ》だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付《てつき》をして猪口《ちよく》を口《くち》へ着《つ》けた。
「余計な事だが、それで家《うち》の方《ほう》の経済は、収支|償《つぐ》なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。
「うん。まあ、好《い》い加減《かげん》にやつてるさ」
 斯う云つた平岡は、急に調子を落《おと》して、極《きわ》めて気のない返事をした。代助は夫限《それぎり》食《く》ひ込《こ》めなくなつた。已《やむ》を得ず、
「不断《ふだん》は今頃《いまごろ》もう家《うち》へ帰《かへ》つてゐるんだらう。此間《このあひだ》僕が訪《たづ》ねた時は大分《だいぶ》遅《おそ》かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は矢張《やはり》問題を回避《くわいひ》する様な語気で、
「まあ帰つたり、帰《かへ》らなかつたりだ。職業が斯《か》う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
「三千代さんは淋《さむ》しいだらう」
「なに大丈夫だ。彼奴《あいつ》も大分《だいぶ》変《かは》つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其|眸《ひとみ》の内《うち》に危《あや》しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は元《もと》に戻《もど》せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧《おの》で割《さ》き限《きり》に割《さ》かれるとすると、自分の運命は取《と》り帰《かへ》しの付《つ》かない未来を眼《め》の前《まへ》に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分《じぶん》と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は即座《そくざ》の衝動《しやうどう》の如《ごと》くに云つた。――
「そんな事が、あらう筈《はづ》がない。いくら、変《かは》つたつて、そりや唯《たゞ》年《とし》を取《と》つた丈の変化だ。成るべく帰《かへ》つて三千代さんに安慰を与へて遣《や》れ」
「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、
「思ふかつて、誰《だれ》だつて左様《さう》思はざるを得んぢやないか」と半ば口《くち》から出任《でまか》せに答へた。
「君は三千代を三年|前《まへ》の三千代と思つてるか。大分《だいぶ》変つたよ。あゝ、大分《だいぶ》変《かは》つたよ」と平岡は又ぐいと飲《の》んだ。代助は覚《おぼ》えず胸《むね》の動|悸《き》を感じた。
「同《おん》なじだ、僕《ぼく》の見る所では全く同《おんな》じだ。少《すこ》しも変《かは》つてゐやしない」
「だつて、僕は家《うち》へ帰つても面白《おもしろ》くないから仕方がないぢやないか」
「そんな筈《はづ》はない」
 平岡は眼《め》を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼《せま》つた。けれども、罪あるものが雷火《らいくわ》に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼《め》の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑《うたが》はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便《たより》に、自分を三千代から永く振り放《はな》さうとする最後の試《こゝろ》みを、半ば無意識的に遣《や》つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠《かく》す為《ため》の、糊塗策《ことさく》とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動《げんどう》を敢てするには、余《あま》りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰《かへ》つた。
「だつて、君がさう外《そと》へ許《ばかり》出《で》てゐれば、自然|金《かね》も要《い》る。従つて家《うち》の経済も旨《うま》く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」
 平岡は、白襯衣《しろしやつ》の袖《そで》を腕《うで》の中途《ちうと》迄|捲《まく》り上《あ》げて、
「家庭か。家庭もあまり下《くだ》さつたものぢやない。家庭を重《おも》く見るのは、君《きみ》の様な独身|者《もの》に限《かぎ》る様だね」と云つた。

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