2008年11月13日木曜日

八の五

 中二日《なかふつか》置《お》いて、突然平岡が来《き》た。其|日《ひ》は乾いた風《かぜ》が朗《ほが》らかな天《そら》を吹《ふ》いて、蒼《あを》いものが眼《め》に映《うつ》る、常《つね》よりは暑《あつ》い天気であつた。朝《あさ》の新聞に菖蒲の案内が出《で》てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭《くんしらん》はとう/\縁側で散《ち》つて仕舞つた。其代り脇差《わきざし》程も幅《はゞ》のある緑《みどり》の葉《は》が、茎《くき》を押し分けて長《なが》く延《の》びて来《き》た。古《ふる》い葉《は》は黒《くろ》ずんだ儘《まゝ》、日に光《ひか》つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分《はんぶ》から折れて、茎《くき》を去る五寸|許《ばかり》の所《ところ》で、急に鋭《するど》く下《さが》つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏《はさみ》を持《も》つて椽に出た。さうして其|葉《は》を折《を》れ込《こ》んだ手前《てまへ》から、剪《き》つて棄てた。時に厚い切《き》り口《くち》が、急に煮染《にじ》む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音《おと》がした。切口《きりくち》に集《あつま》つたのは緑色《みどりいろ》の濃い重《おも》い汁《しる》であつた。代助は其香《そのにほひ》を嗅《か》がうと思つて、乱《みだ》れる葉《は》の中《なか》に鼻を突《つ》つ込んだ。椽側の滴《したゝり》は其儘にして置いた。立ち上《あ》がつて、袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して、鋏《はさみ》の刃《は》を拭《ふ》いてゐる所へ、門野《かどの》が平岡さんが御出《おいで》ですと報《しら》せて来《き》たのである。代助は其時平岡の事《こと》も三千代の事も、丸で頭《あたま》の中《なか》に考へてゐなかつた。只《たゞ》不思議な緑色《みどりいろ》の液体《えきたい》に支配されて、比較的|世間《せけん》に関係のない情調の下《もと》に動《うご》いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「此方《こつち》へ御|通《とほ》し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席《せき》に導《みちび》かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着《き》てゐた。襟《えり》も白襯衣《しろしやつ》も新《あた》らしい上《うへ》に、流行の編襟飾《あみえりかざり》を掛《か》けて、浪人とは誰《だれ》にも受け取れない位、ハイカラに取り繕《つく》ろつてゐた。
 話《はな》して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日|斯《か》うして遊《あそ》んで歩《ある》く。それでなければ、宅《うち》に寐《ね》てゐるんだと云つて、大きな声を出《だ》して笑つて見せた。代助もそれが可《よ》からうと答へたなり、後《あと》は当《あた》らず障らずの世間話《せけんばなし》に時間《じかん》を潰《つぶ》してゐた。けれども自然に出《で》る世間|話《ばなし》といふよりも、寧ろある問題を回避する為《ため》の世間話《せけんばなし》だから、両方共に緊張《きんちよう》を腹《はら》の底《そこ》に感《かん》じてゐた。
 平岡は三千代の事も、金《かね》の事も口《くち》へ出《だ》さなかつた。従《した》がつて三日前《みつかまへ》代助が彼《かれ》の留守宅を訪問した事に就ても何も語《かた》らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触《ふ》れないで澄《すま》してゐたが、何時《いつ》迄|経《た》つても、平岡の方で余所《よそ》々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日|前《まへ》君の所《ところ》へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様《さう》だつたさうだね。其節は又難有う。御|蔭《かげ》さまで。――なに、君を煩はさないでも何《ど》うかなつたんだが、彼奴《あいつ》があまり心配し過《すぎ》て、つい君に迷惑を掛けて済《す》まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来《き》た様《やう》なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出《で》るだらうから」と丸で三千代と自分を別物《べつもの》にした言分《いひぶん》であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話《はなし》は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持《も》たない方面に摺《ず》り滑《すべ》つて行《い》つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已《や》めるかも知れない。実際|内幕《うちまく》を知れば知る程|厭《いや》になる。其上|此方《こつち》へ来《き》て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底《しんそこ》かららしい告白をした。代助は、一口《ひとくち》、
「それは、左様《さう》だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付《つ》けた。
「先達ても一寸《ちよつと》話《はな》したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口《くち》があるのかい」と代助が聞《き》き返した。
「今《いま》、一《ひと》つある。多分|出来《でき》さうだ」
 来《き》た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口《くち》があるから出様と云ふし、少し要領を欠《か》いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。

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