2008年11月12日水曜日

十一の三

 彼は足の進まない方角へ散歩に出《で》たのを悔いた。もう一遍|出直《でなほ》して、平岡の許《もと》迄|行《い》かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が来《き》た。新らしい麦藁《むぎわら》帽を被《かぶ》つて、閑静な薄い羽織を着て、暑《あつ》い/\と云つて赤い顔《かほ》を拭《ふ》いた。
「何《なん》だつて、今時分《いまじぶん》来《き》たんだ」と代助は愛想《あいそ》もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。
「今|時分《じぶん》が丁度訪問に好《い》い刻限だらう。君《きみ》、又|昼寐《ひるね》をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可《いか》ん。君は一体何の為《ため》に生《うま》れて来《き》たのだつたかね」と云つて、寺尾は麦藁《むぎわら》帽で、しきりに胸のあたりへ風《かぜ》を送《おく》つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。
「何の為《ため》に生《うま》れて来《き》やうと、余計な御世話だ。夫《それ》より君こそ何しに来《き》たんだ。又「此所《こゝ》十日許《とほかばかり》の間《あひだ》」ぢやないか、金《かね》の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先《さき》へ断《ことわ》つた。
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙《だま》つて、寺尾の顔《かほ》を見てゐた。それは、空《むな》しい壁《かべ》を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。
 寺尾は懐《ふところ》から汚《きた》ない仮綴《かりとぢ》の書物を出《だ》した。
「是を訳《やく》さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として黙《だま》つてゐた。
「食《く》ふに困《こま》らないと思つて、さう無精《ぶせう》な顔《かほ》をしなくつて好《よ》からう。もう少し判然《はんぜん》として呉《く》れ。此方《こつち》は生死《せいし》の戦《たゝかひ》だ」と云つて、寺尾は小形《こがた》の本をとん/\と椅子《いす》の角《かど》で二返|敲《たゝ》いた。
「何時《いつ》迄に」
 寺尾は、書物の頁《ページ》をさら/\と繰《く》つて見せたが、断然たる調子で、
「二週間」と答へた後《あと》で、「何《ど》うでも斯《か》うでも、夫迄に片付《かたづけ》なけりや、食《く》へないんだから仕方がない」と説明した。
「偉《えら》い勢《いきほひ》だね」と代助は冷《ひや》かした。
「だから、本郷からわざ/\遣《や》つて来《き》たんだ。なに、金《かね》は借《か》りなくても好《い》い。――貸《か》せば猶|好《い》いが――夫《それ》より少し分《わか》らない所があるから、相談しやうと思《おも》つて」
「面倒だな。僕は今日《けふ》は頭《あたま》が悪《わる》くつて、そんな事は遣《や》つてゐられないよ。好《い》い加減に訳して置けば構《かま》はないぢやないか。どうせ原稿料は頁《ページ》で呉れるんだらう」
「なんぼ、僕《ぼく》だつて、さう無責任な翻訳は出来《でき》ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると後《あと》から面倒だあね」
「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、
「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる人《ひと》は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、本《ほん》の善《よ》く読める人《ひと》の所へ行《い》く気なら、わざ/\君の所迄|来《き》やしない。けれども、左《そ》んな人《ひと》は君《きみ》と違《ちが》つて、みんな忙《いそが》しいんだからな」と少《すこ》しも辟易した様子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか何方《どつち》かだと覚悟を極《き》めた。彼の性質として、斯《か》う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、怒《おこ》り付《つ》ける気は出《だ》せなかつた。
「ぢや成るべく少《すこ》しに仕様ぢやないか」と断《ことわ》つて置いて、符号《マーク》の附《つ》けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧《あいまい》な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、
「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。
「分《わか》らない所は何《どう》する」と代助が聞《き》いた。
「なに何《どう》かする。――誰《だれ》に聞《き》いたつて、さう善く分《わか》りやしまい。第一|時間《じかん》がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如く天《てん》から極めてゐた。
 相談が済《す》むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち出《だ》した。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは違《ちが》つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑《おか》しく思つた。けれども面倒だから、口《くち》へは出《だ》さなかつた。
 寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた。

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