2008年11月12日水曜日

十一の九

 翌日《よくじつ》代助は但馬にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰《かへ》つたぎり、今日迄《こんにちまで》ついぞ東京へ出《で》た事のない男であつた。当人は無論|山《やま》の中《なか》で暮《くら》す気はなかつたんだが、親《おや》の命令で已《やむ》を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。夫《それ》でも一年許《いちねんばかり》の間《あひだ》は、もう一返|親父《おやぢ》を説《と》き付《つ》けて、東京へ出《で》る出《で》ると云つて、うるさい程手紙を寄《よ》こしたが、此頃は漸く断念したと見《み》えて、大した不平がましい訴もしない様になつた。家《いへ》は所《ところ》の旧家《きうか》で、先祖から持《も》ち伝へた山林を年々|伐《き》り出すのが、重《おも》な用事になつてゐるよしであつた。今度《こんど》の手紙には、彼《かれ》の日常生活の模様が委しく書《か》いてあつた。それから、一ヶ月前町長に挙《あ》げられて、年俸を三百円頂戴する身分になつた事を、面白半分《おもしろはんぶん》、殊更に真面目《まじめ》な句調で吹聴して来《き》た。卒業してすぐ中学の教師になつても、此三倍は貰《もら》へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。
 此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都|在《ざい》のある財産家から嫁《よめ》を貰《もら》つた。それは無論|親《おや》の云ひ付《つけ》であつた。すると、少時《しばらく》して、直《すぐ》子供が生れた。女房の事は貰《もら》つた時より外《ほか》に何も云つて来《こ》ないが、子供の生長《おいたち》には興味があると見えて、時々《とき/″\》代助の可笑《おかし》くなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、此子供に対して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の為《ため》に、彼の細君に対する感想が、貰《もら》つた当時に比べて、どの位変化したかを疑つた。
 友人は時々《とき/″\》鮎《あゆ》の乾《ほ》したのや、柿の乾《ほ》したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣《や》つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは続《つゞ》かなかつた。仕舞には受取《うけと》つたと云ふ礼状さへ寄《よ》こさなかつた。此方《こつち》からわざ/\問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい遅《おそ》くなつた。実はまだ読《よ》まない。白状すると、読《よ》む閑《ひま》がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも解《わか》らなくなつたのである。といふ返事が来《き》た。代助は夫《それ》から書物を廃《や》めて、其代りに新らしい玩具《おもちや》を買《か》つて送《おく》る事にした。
 代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を有《も》つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色《ねいろ》を出《だ》してゐると云ふ事実を、切《せつ》に感じた。さうして、命《いのち》の絃《いと》の震動《しんどう》から出《で》る二人《ふたり》の響《ひゞき》を審《つまびら》かに比較した。
 彼《かれ》は理論家《セオリスト》として、友人の結婚《けつこん》を肯《うけが》つた。山《やま》の中《なか》に住《す》んで、樹《き》や谷《たに》を相手にしてゐるものは、親《おや》の取り極《き》めた通りの妻《つま》を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼《かれ》は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来《きた》すものと断定した。其原因を云へば、都会は人間《にんげん》の展覧会に過ぎないからであつた。彼は此前提《このぜんてい》から此《この》結論に達する為《ため》に斯《か》う云ふ径路を辿《たど》つた。
 彼は肉体と精神に於て美《び》の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる美《び》の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる美《び》の種類に接触して、其たび毎《ごと》に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動《うご》かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞|家《か》であると断定した。彼《かれ》は是《これ》を自家の経験に徴《ちよう》して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力《アツトラクシヨン》に於て、悉く随縁臨機《ずいえんりんき》に、測りがたき変化を受《う》けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延《の》ばすと、既婚《きこん》の一対《いつつい》は、双方ともに、流俗に所謂《いはゆる》不義《インフイデリチ》の念に冒《おか》されて、過去から生じた不幸を、始終|嘗《な》めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替《か》えるか分《わか》らないではないか。普通の都会人は、より少《すく》なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝《かは》らざる愛を、今《いま》の世に口《くち》にするものを偽善家《ぎぜんか》の第一位に置《お》いた。
 此所《こゝ》迄考へた時、代助の頭《あたま》の中《なか》に、突然|三千代《みちよ》の姿《すがた》が浮《うか》んだ。其時《そのとき》代助はこの論理中に、或《ある》因数《フアクター》を数《かぞ》へ込むのを忘れたのではなからうかと疑《うたぐ》つた。けれども、其|因数《フアクター》は何《ど》うしても発見《はつけん》する事が出来《でき》なかつた。すると、自分が三千代に対する情|合《あひ》も、此|論理《ろんり》によつて、たゞ現在的《げんざいてき》のものに過《す》ぎなくなつた。彼《かれ》の頭《あたま》は正《まさ》にこれを承認した。然し彼《かれ》の心《ハート》は、慥かに左様《さう》だと感《かん》ずる勇気がなかつた。

0 件のコメント: