2008年11月14日金曜日

二の一

 着物《きもの》でも着換《きか》へて、此方《こつち》から平岡《ひらをか》の宿《やど》を訪《たづ》ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方《むかふ》から遣《や》つて来《き》た。車《くるま》をがら/\と門前迄乗り付けて、此所《こゝ》だ/\と梶《かぢ》棒を下《おろ》さした声は慥《たし》かに三年前|分《わか》れた時そつくりである。玄関で、取次《とりつぎ》の婆さんを捕《つら》まへて、宿《やど》へ蟇口《がまぐち》を忘れて来《き》たから、一寸《ちよつと》二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄|馳《か》け出して行つて、手を執《と》らぬ許りに旧友を座敷へ上《あ》げた。
「何《ど》うした。まあ緩《ゆつ》くりするが好《い》い」
「おや、椅子《いす》だね」と云ひながら平岡は安楽|椅子《いす》へ、どさりと身体《からだ》を投《な》げ掛《か》けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉《にく》に、三文の価値《ねうち》を置いてゐない様な扱《あつ》かひ方《かた》に見えた。それから椅子《いす》の脊《せ》に坊主頭《ぼうずあたま》を靠《も》たして、一寸《ちよつと》部屋の中《うち》を見廻しながら、
「中々《なか/\》、好《い》い家《うち》だね。思つたより好《い》い」と賞《ほ》めた。代助は黙《だま》つて巻莨入《まきたばこいれ》の蓋《ふた》を開《あ》けた。
「それから、以後《いご》何《ど》うだい」
「何《ど》うの、斯《か》うのつて、――まあ色々《いろ/\》話すがね」
「もとは、よく手紙が来《き》たから、様子が分《わか》つたが、近頃ぢや些《ちつ》とも寄《よこ》さないもんだから」
「いや何所《どこ》も彼所《かしこ》も御無沙汰で」と平岡は突然《とつぜん》眼鏡《めがね》を外《はづ》して、脊広の胸から皺だらけの手帛《ハンケチ》を出して、眼《め》をぱち/\させながら拭《ふ》き始めた。学校時代からの近眼である。代助は凝《じつ》と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、細《ほそ》い蔓《つる》を耳《みゝ》の後《うしろ》へ絡《から》みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番|好《い》いな。あんまり相変るものだから」
 そこで平岡《ひらをか》は八《はち》の字《じ》を寄《よ》せて、庭の模様を眺め出《だ》したが、不意に語調を更《か》へて、
「やあ、桜《さくら》がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか故《もと》の様にしんみりしない。代助も少し気の抜《ぬ》けた風に、
「向ふは大分|暖《あつた》かいだらう」と序《ついで》同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法|外《ぐわい》に熱《ねつ》した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨《まきたばこ》に火を点《つ》けた。其時婆さんが漸く急須《きうす》に茶を注《い》れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水《みづ》を射《さ》して仕舞つたので、煮立《にたて》るのに暇《ひま》が入つて、つい遅《おそ》くなつて済《す》みませんと言訳をしながら、洋卓《テーブル》の上《うへ》へ盆《ぼん》を載せた。二人《ふたり》は婆《ばあ》さんの喋舌《しやべつ》てる間《あひだ》、紫檀の盆《ぼん》を見《み》て黙《だま》つてゐた。婆さんは相手にされないので、独《ひと》りで愛想笑ひをして座敷を出《で》た。
「ありや何《なん》だい」
「婆《ばあ》さんさ。雇《やと》つたんだ。飯《めし》を食《く》はなくつちやならないから」
「御世辞が好《い》いね」
 代助は赤い唇《くちびる》の両|端《はし》を、少し弓《ゆみ》なりに下《した》の方へ彎《ま》げて蔑《さげす》む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の家《うち》から誰《だれ》か連《つ》れて呉れば好《い》いのに。大勢《おほぜい》ゐるだらう」
「みんな若《わか》いの許りでね」と代助は真面目《まじめ》に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「若《わか》けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角|家《うち》の奴《やつ》は好《よ》くないよ」
「あの婆《ばあ》さんの外《ほか》に誰《だれ》かゐるのかい」
「書生が一人《ひとり》ゐる」
 門野《かどの》は何時《いつ》の間《ま》にか帰つて、台所《だいどころ》の方で婆さんと話《はなし》をしてゐた。
「それ限《ぎ》りかい」
「それ限《ぎ》りだ。何故《なぜ》」
「細君はまだ貰《もら》はないのかい」
 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「妻《さい》を貰つたら、君の所へ通知|位《ぐらゐ》する筈ぢやないか。夫《それ》よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。

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