2008年11月12日水曜日

十二の二

 代助は其夜《そのよ》すぐ立《た》たうと思つて、グラツドストーンの中《なか》を門野《かどの》に掃|除《じ》さして、携帯品を少《すこ》し詰《つ》め込《こ》んだ。門野《かどの》は少《すく》なからざる好奇心を以て、代助の革鞄《かばん》を眺《なが》めてゐたが、
「少《すこ》し手伝《てつだ》ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、
「なに、訳《わけ》はない」と断わりながら、一旦|詰《つ》め込んだ香水の壜《びん》を取《と》り出《だ》して、封被《ふうひ》を剥《は》いで、栓《せん》を抜《ぬ》いて、鼻《はな》に当《あ》てゝ嗅《か》いで見た。門野は少《すこ》し愛想を尽《つか》した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三|分《ぷん》すると又|出《で》て来《き》て、
「先生、車《くるま》を左様《さう》云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顔《かほ》を上《あ》げた。
「左様《さう》、少し待《ま》つて呉れ給へ」
 庭《には》を見ると、生垣《いけがき》の要目《かなめ》の頂《いたゞき》に、まだ薄明《うすあか》るい日足《ひあし》がうろついてゐた。代助は外《そと》を覗《のぞ》きながら、是から三十分のうちに行く先《さき》を極《き》めやうと考へた。何でも都合のよささうな時|間《かん》に出《で》る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ降《お》りて、其所《そこ》で明日《あした》迄|暮《く》らして、暮《く》らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫《さら》ひに来《く》るのを待つ積《つもり》であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の宿泊《とまり》を続《つゞ》けるとすれば、一週間も保《も》たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。愈《いよ/\》となれば、家《うち》から金《かね》を取り寄《よ》せる気でゐた。それから、本来が四辺《しへん》の風気《ふうき》を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、荷持《にもち》を雇つて、一日《いちにち》歩《ある》いても可《い》いと覚悟した。
 彼は又旅行案内を開《ひら》いて、細かい数字を丹念《たんねん》に調べ出《だ》したが、少しも決定の運《はこび》に近寄《ちかよ》らないうちに、又三千代の方に頭《あたま》が滑《すべ》つて行《い》つた。立《た》つ前《まへ》にもう一遍様子を見て、それから東京を出《で》やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは今夜中《こんやぢう》に始末を付《つ》けて、明日《あす》の朝早《あさはや》く提《さ》げて行《い》かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄|出《で》た。其|音《おと》を聞き付《つ》けて、門野《かどの》も飛び出《だ》した。代助は不断着《ふだんぎ》の儘、掛釘《かけくぎ》から帽子を取つてゐた。
「又御|出掛《でかけ》ですか。何か御買物《おかひもの》ぢやありませんか。私《わたくし》で可《よ》ければ買《か》つて来《き》ませう」と門野《かどの》が驚《おど》ろいた様《やう》に云つた。
「今夜《こんや》は已《や》めだ」と云ひ放《はな》した儘、代助は外《そと》へ出《で》た。外《そと》はもう暗《くら》かつた。美《うつ》くしい空《そら》に星《ほし》がぽつ/\影《かげ》を増《ま》して行く様に見えた。心持《こゝろもち》の好《い》い風《かぜ》が袂《たもと》を吹《ふ》いた。けれども長《なが》い足《あし》を大きく動かした代助は、二三町も歩《ある》かないうちに額際《ひたひぎは》に汗《あせ》を覚えた。彼は頭《あたま》から鳥打を脱《と》つた。黒い髪《かみ》を夜露《よつゆ》に打たして、時々《とき/″\》帽子をわざと振《ふ》つて歩《ある》いた。
 平岡の家《いへ》の近所へ来《く》ると、暗《くら》い人影《ひとかげ》が蝙蝠《かはほり》の如く静《しづ》かに其所《そこ》、此所《こゝ》に動《うご》いた。粗末な板塀《いたべい》の隙間《すきま》から、洋燈《ランプ》の灯《ひ》が往来へ映《うつ》つた。三千代《みちよ》は其光《そのひかり》の下《した》で新聞を読《よ》んでゐた。今頃《いまごろ》新聞を読むのかと聞《き》いたら、二返目だと答へた。
「そんなに閑《ひま》なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移《うつ》して、椽側へ半分|身体《からだ》を出《だ》しながら、障子へ倚りかゝつた。
 平岡は居なかつた。三千代《みちよ》は今《いま》湯から帰《かへ》つた所だと云つて、団扇さへ膝《ひざ》の傍《そば》に置いてゐた。平生《いつも》の頬《ほゝ》に、心持《こゝろもち》暖《あたゝか》い色を出《だ》して、もう帰るでせうから、緩《ゆつ》くりしてゐらつしやいと、茶の間《ま》へ茶を入れに立《た》つた。髪は西洋風に結つてゐた。
 平岡は三千代の云つた通りには中々《なか/\》帰らなかつた。何時《いつ》でも斯んなに遅《おそ》いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ左《そ》んな所でせうと答へた。代助は其|笑《わらひ》の中《なか》に一種《いつしゆ》の淋《さみ》しさを認めて、眼《め》を正《たゞ》して、三千代の顔《かほ》を凝《じつ》と見た。三千代は急に団扇《うちは》を取つて袖《そで》の下《した》を煽《あほ》いだ。
 代助は平岡の経済の事が気に掛《かゝ》つた。正面から、此頃《このごろ》は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は左様《さう》ですねと云つて、又前の様な笑《わら》ひ方《かた》をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、
「貴方《あなた》には、左様《さう》見えて」と今度は向ふから聞き直《なほ》した。さうして、手に持つた団扇《うちは》を放り出《だ》して、湯《ゆ》から出《で》たての奇麗な繊《ほそ》い指《ゆび》を、代助の前に広《ひろ》げて見せた。其|指《ゆび》には代助の贈《おく》つた指環《ゆびわ》も、他《ほか》の指環《ゆびわ》も穿《は》めてゐなかつた。自分の記念を何時《いつ》でも胸に描《ゑが》いてゐた代助には、三千代《みちよ》の意味がよく分《わか》つた。三千代は手を引き込《こ》めると同時に、ぽつと赤い顔をした。
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。

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