2008年11月12日水曜日

十一の六

 何《なに》か事《こと》が起《おこ》つたのかと思つて、上《あが》り掛《が》けに、書生部屋を覗《のぞ》いて見たら、直木《なほき》と誠太郎がたつた二人《ふたり》で、白砂糖《しろざとう》を振《ふ》り掛《か》けた苺《いちご》を食《く》つてゐた。
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ居《ゐ》ずまひを直《なほ》して、挨拶をした。誠太郎は唇《くちびる》の縁《ふち》を濡《ぬ》らした儘《まゝ》、突然、
「叔父《おぢ》さん、奥《おく》さんは何時《いつ》貰《もら》ふんですか」と聞《き》いた。直木はにや/\してゐる。代助は一寸返答に窮した。已を得ず、
「今日《けふ》は何故《なぜ》学校《がつこう》へ行《い》かないんだ。さうして朝《あさ》つ腹《ぱら》から苺《いちご》なんぞを食《く》つて」と調戯《からか》ふ様に、叱《しか》る様に云つた。
「だつて今日《けふ》は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は真面目《まじめ》になつた。
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
 直木は代助の顔《かほ》を見てとう/\笑ひ出《だ》した。代助も笑つて、座敷へ来《き》た。そこには誰《だれ》も居なかつた。替《か》え立ての畳《たゝみ》の上《うへ》に、丸い紫檀の刳抜盆《くりぬきぼん》が一つ出《で》てゐて、中《なか》に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様|画《ぐわ》が染《そ》め付《つ》けてあつた。からんとした広《ひろ》い座敷へ朝《あさ》の緑《みどり》が庭《には》から射《さ》し込んで、凡《すべ》てが静《しづ》かに見えた。戸外《そと》の風《かぜ》は急に落ちた様に思はれた。
 座敷を通り抜《ぬ》けて、兄《あに》の部屋《へや》の方《ほう》へ来《き》たら、人《ひと》の影《かげ》がした。
「あら、だつて、夫《それ》ぢや余《あん》まりだわ」と云ふ嫂《あによめ》の声が聞えた。代助は中《なか》へ這入つた。中《なか》には兄《あに》と嫂《あによめ》と縫子がゐた。兄《あに》は角帯《かくおび》に金鎖《きんぐさり》を巻《ま》き付《つ》けて、近頃流行る妙な絽《ろ》の羽織を着《き》て、此方《こちら》を向《む》いて立つてゐた。代助の姿《すがた》を見て、
「そら来《き》た。ね。だから一所に連《つ》れて行《い》つて御貰《おもらひ》よ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より分《わか》らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、今日《けふ》貴方《あなた》、無論|暇《ひま》でせう」と云つた。
「えゝ、まあ暇《ひま》です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行《い》つて頂戴」
 代助は嫂《あによめ》の此言葉を聞いて、頭《あたま》の中《なか》に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日《けふ》は平常《いつも》の様に、嫂《あによめ》に調戯《からか》ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な顔《かほ》をして、
「えゝ宜《よろ》しい、行《い》きませう」と機嫌《きげん》よく答へた。すると梅子は、
「だつて、貴方《あなた》は、最早《もう》、一遍|観《み》たつて云ふんぢやありませんか」と聞《き》き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、些《ちつ》とも構《かま》はない。行《い》きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「貴方《あなた》も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を感《かん》じた。
 兄《あに》は用があると云つて、すぐ出《で》て行《い》つた。四時頃用が済《す》んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら好《よ》ささうなものだが、梅子は夫《それ》が厭《いや》だと云つた。そんなら直木を連れて行《い》けと兄《あに》から注意された時、直木は紺絣《こんがすり》を着《き》て、袴《はかま》を穿《は》いて、六づかしく坐《すは》つてゐて不可《いけ》ないと答へた。夫《それ》で仕方がないから代助を迎ひに遣《や》つたのだ、と、是は兄《あに》が出掛《でがけ》の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左様《さう》ですかと答へた。さうして、嫂《あによめ》は幕《まく》の相間《あひま》に話《はな》し相手が欲《ほし》いのと、夫《それ》からいざと云ふ時《とき》に、色々《いろ/\》用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び寄《よ》せたに違ないと解釈した。
 梅子と縫子は長い時間を御|化《け》粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人《ふたり》の傍《そば》に附《つ》いてゐた。さうして時々は、面白|半分《はんぶん》の冷《ひや》かしも云つた。縫子からは叔父《おぢ》さん随分だわを二三度繰り返《かへ》された。
 父《ちゝ》は今朝《けさ》早くから出《で》て、家《うち》にゐなかつた。何処《どこ》へ行つたのだか、嫂《あによめ》は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間《このあひだ》の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔《かほ》を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過《す》ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父《ちゝ》は座敷の方へ出《で》て来《き》て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃《に》げ支度をすると云つて怒《おこ》つた。と嫂《あによめ》は鏡《かゞみ》の前で夏帯《なつおび》の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を落《おと》したもんだな」
 代助は斯う云つて、嫂《あによめ》と縫子《ぬひこ》の蝙蝠傘《かはほりがさ》を抱《さ》げて一足《ひとあし》先へ玄関へ出《で》た。車はそこに三挺|并《なら》んでゐた。

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