2008年11月13日木曜日

十の六

 そのうち雨《あめ》は益《ます/\》深《ふか》くなつた。家《いへ》を包《つゝ》んで遠い音《おと》が聴《きこ》えた。門野《かどの》が出《で》て来《き》て、少《すこ》し寒《さむ》い様ですな、硝子戸《がらすど》を閉《し》めませうかと聞《き》いた。硝子戸《がらすど》を引《ひ》く間《あひだ》、二人《ふたり》は顔《かほ》を揃《そろ》えて庭《には》の方を見《み》てゐた。青《あを》い木《き》の葉《は》が悉《ことごと》く濡《ぬ》れて、静《しづ》かな湿《しめ》り気《け》が、硝子越《がらすごし》に代助の頭《あたま》に吹《ふ》き込《こ》んで来《き》た。世《よ》の中《なか》の浮《う》いてゐるものは残らず大地《だいち》の上《うへ》に落ち付《つ》いた様に見えた。代助は久《ひさ》し振《ぶ》りで吾《われ》に返《かへ》つた心持がした。
「好《い》い雨《あめ》ですね」と云つた。
「些《ちつ》とも好《よ》かないわ、私《わたし》、草履《ざうり》を穿《は》いて来《き》たんですもの」
 三千代は寧ろ恨《うら》めしさうに樋から洩《も》る雨点《あまだれ》を眺《なが》めた。
「帰《かへ》りには車《くるま》を云ひ付《つ》けて上《あ》げるから可《い》いでせう。緩《ゆつく》りなさい」
 三千代はあまり緩《ゆつく》り出来《でき》さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「貴方《あなた》も相変らず呑気《のんき》な事を仰《おつ》しやるのね」と窘《たしな》めた。けれども其|眼元《めもと》には笑《わらひ》の影《かげ》が泛《うか》んでゐた。
 今迄三千代の陰《かげ》に隠《かく》れてぼんやりしてゐた平岡の顔《かほ》が、此時|明《あき》らかに代助の心《こゝろ》の瞳《ひとみ》に映《うつ》つた。代助は急に薄暗《うすくら》がりから物《もの》に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離《はな》れ難《がた》い黒い影《かげ》を引き摺《ず》つて歩《ある》いてゐる女であつた。
「平岡君は何《ど》うしました」とわざと何気《なにげ》なく聞《き》いた。すると三千代の口元《くちもと》が心持《こゝろもち》締《しま》つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何《なん》にも見付《めつか》らないんですか」
「その方はまあ安心なの。来月《らいげつ》から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりや好《よ》かつた。些《ちつ》とも知らなかつた。そんなら当分夫で好《い》いぢやありませんか」
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で真面目《まじめ》に云つた。代助は、其時三千代を大変|可愛《かあい》く感じた。引き続《つゞ》いて、
「彼方《あつち》の方《ほう》は差し当《あた》り責《せ》められる様な事もないんですか」と聞《き》いた。
「彼方《あつち》の方《ほう》つて――」と少《すこ》し逡巡《ためら》つてゐた三千代は、急《きう》に顔《かほ》を赧《あか》らめた。
「私《わたし》、実は今日《けふ》夫《それ》で御詫《おわび》に上《あが》つたのよ」と云ひながら、一度|俯向《うつむ》いた顔を又|上《あ》げた。
 代助は少しでも気不味《きまづ》い様子を見せて、此上にも、女の優《やさ》しい血潮を動《うご》かすに堪えなかつた。同時に、わざと向《むか》ふの意を迎へる様な言葉を掛《か》けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
 先達《せんだつ》ての二百円は、代助から受取《うけと》るとすぐ借銭《しやくせん》の方へ回《まは》す筈《はず》であつたが、新《あた》らしく家《うち》を持《も》つた為《ため》、色々《いろ/\》入費が掛《かゝ》つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁《べん》じたのが始《はじま》りであつた。あとはと思つてゐると、今度《こんど》は毎日の活計《くらし》に追《お》はれ出《だ》した。自分ながら好《い》い心持《こゝろもち》はしなかつたけれども、仕方《しかた》なしに困《こま》るとは使《つか》ひ、困《こま》るとは使《つかひ》して、とう/\荒増《あらまし》亡《な》くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日《こんにち》迄|斯《か》うして暮《く》らしては行《い》けなかつたのである。今から考へて見ると、一層《いつそ》の事|無《な》ければ無《な》いなりに、何《ど》うか斯《か》うか工面《くめん》も付《つ》いたかも知れないが、なまじい、手元《てもと》に有《あ》つたものだから、苦《くる》し紛《まぎ》れに、急場《きうば》の間《ま》に合《あ》はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭《しやくせん》の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧《むし》ろ平岡の悪《わる》いのではない。全く自分の過《あやまち》である。
「私《わたし》、本当《ほんとう》に済《す》まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して貴方《あなた》を瞞《だま》して嘘《うそ》を吐《つ》く積《つもり》ぢやなかつたんだから、堪忍《かんにん》して頂戴」と三千代は甚だ苦《くる》しさうに言訳《いひわけ》をした。
「何《ど》うせ貴方《あなた》に上《あ》げたんだから、何《ど》う使《つか》つたつて、誰《だれ》も何とも云ふ訳はないでせう。役《やく》にさへ立《た》てば夫《それ》で好《い》いぢやありませんか」と代助は慰《なぐさ》めた。さうして貴方《あなた》といふ字をことさらに重《おも》く且つ緩《ゆる》く響《ひゞ》かせた。三千代はたゞ、
「私《わたし》、夫《それ》で漸く安心したわ」と云つた丈であつた。
 雨が頻《しきり》なので、帰《かへ》るときには約束通り車《くるま》を雇つた。寒《さむ》いので、セルの上《うへ》へ男の羽織を着《き》せやうとしたら、三千代は笑つて着《き》なかつた。

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