2008年11月13日木曜日

七の五

「代さん、あなたは不断《ふだん》から私《わたくし》を馬鹿にして御出《おいで》なさる。――いゝえ、厭味《いやみ》を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「困《こま》りますね、左様《さう》真剣《しんけん》に詰問《きつもん》されちや」
「善《よ》ござんすよ。胡魔化《ごまくわ》さないでも。ちやんと分《わか》つてるんだから。だから正直に左様《さう》だと云つて御仕舞なさい。左様《さう》でないと、後《あと》が話《はな》せないから」
 代助は黙《だま》つてにや/\笑《わら》つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構《かま》やしません。いくら私《わたし》が威張つたつて、貴方《あなた》に敵《かな》ひつこないのは無論ですもの。私《わたし》と貴方《あなた》とは今迄|通《どほ》りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫《それ》で好《い》いとして、貴方《あなた》は御父《おとう》さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
 代助は嫂《あによめ》の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左《さ》も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「兄《にい》さんも馬鹿にして入らつしやる」
「兄《にい》さんですか。兄《にい》さんは大いに尊敬してゐる」
「嘘《うそ》を仰《おつ》しやい。序《ついで》だから、みんな打《ぶ》ち散《ま》けて御|仕舞《しまひ》なさい」
「そりや、或点《あるてん》では馬鹿にしない事もない」
「それ御|覧《らん》なさい。あなたは一家族|中《ぢう》悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳《いひわけ》はどうでも好《い》いんですよ。貴方《あなた》から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、廃《よ》さうぢやありませんか。今日《けふ》は中中《なかなか》きびしいですね」
「本当なのよ。夫《それ》で差支《さしつかへ》ないんですよ。喧嘩も何《なに》も起《おこ》らないんだから。けれどもね、そんなに偉《えら》い貴方《あなた》が、何故《なぜ》私《わたし》なんぞから御金《おかね》を借《か》りる必要があるの。可笑《おか》しいぢやありませんか。いえ、揚足《あげあし》を取ると思ふと、腹《はら》が立つでせう。左様《そん》なんぢやありません。それ程|偉《えら》い貴方《あなた》でも、御金《おかね》がないと、私《わたし》見た様なものに頭《あたま》を下《さ》げなけりやならなくなる」
「だから先《さつ》きから頭《あたま》を下《さ》げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が私《わたし》の本気な所なんです」
「ぢや、それも貴方《あなた》の偉《えら》い所かも知れない。然し誰《だれ》も御金《おかね》を貸《か》し手《て》がなくつて、今の御友達を救《すく》つて上《あ》げる事が出来なかつたら、何《ど》うなさる。いくら偉《えら》くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋《くるまや》と同《おん》なしですもの」
 代助は今迄|嫂《あによめ》が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金《かね》の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡《うち》に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから姉《ねえ》さんに頼《たの》むんです」
「仕方がないのね、貴方《あなた》は。あんまり、偉過《えらすぎ》て。一人《ひとり》で御|金《かね》を御|取《と》んなさいな。本当の車屋なら貸《か》して上げない事もないけれども、貴方《あなた》には厭《いや》よ。だつて余《あんま》りぢやありませんか。月々《つき/″\》兄《にい》さんや御父《おとう》さんの厄介になつた上《うへ》に、人《ひと》の分《ぶん》迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰《だれ》も出《だ》し度《たく》はないぢやありませんか」
 梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此|尤《もつとも》を通り越して、気が付《つ》かずにゐた。振り返つて見ると、後《うしろ》の方に姉《あね》と兄《あに》と父《ちゝ》がかたまつてゐた。自分も後戻《あともど》りをして、世間並《せけんなみ》にならなければならないと感じた。家《うち》を出《で》る時、嫂《あによめ》から無心を断わられるだらうとは気遣《きづか》つた。けれども夫《それ》が為《た》めに、大いに働《はた》らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。

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