2008年11月13日木曜日

八の四

 平岡《ひらをか》は不在《ふざい》であつた。それを聞《き》いた時、代助は話《はな》してゐ易《やす》い様な、又|話《はな》してゐ悪《にく》い様な変な気がした。けれども三千代の方は常《つね》の通り落ち付《つ》いてゐた。洋燈《ランプ》も点《つ》けないで、暗《くら》い室《へや》を閉《た》て切つた儘|二人《ふたり》で坐《すは》つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も先刻《さつき》其所《そこ》迄用|達《たし》に出《で》て、今帰つて夕食《ゆふめし》を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が出《で》た。
 予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり外《そと》へ出《で》なくなつた。疲《つか》れたと云つて、よく宅《うち》に寐《ね》てゐる。でなければ酒《さけ》を飲《の》む。人《ひと》が尋《たづ》ねて来《く》れば猶|飲《の》む。さうして善《よ》く怒《おこ》る。さかんに人《ひと》を罵倒する。のださうである。
「昔《むかし》と違《ちが》つて気が荒《あら》くなつて困《こま》るわ」と云つて、三千代《みちよ》は暗に同情を求める様子であつた。代助は黙《だま》つてゐた。下女が帰《かへ》つて来《き》て、勝手|口《ぐち》でがた/\音《おと》をさせた。しばらくすると、胡摩竹《ごまだけ》の台《だい》の着《つ》いた洋燈《ランプ》を持つて出《で》た。襖《ふすま》を締《し》める時《とき》、代助の顔《かほ》を偸《ぬす》む様に見て行つた。
 代助は懐《ふところ》から例の小|切手《ぎつて》を出《だ》した。二つに折《を》れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛《か》けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「先達《せんだつ》て御頼《おたのみ》の金《かね》ですがね」
 三千代は何にも答へなかつた。たゞ眼《め》を挙《あ》げて代助を見た。
「実《じつ》は、直《すぐ》にもと思つたんだけれども、此方《こつち》の都合が付《つ》かなかつたものだから、遂《つい》遅《おそ》くなつたんだが、何《ど》うですか、もう始末は付《つ》きましたか」と聞いた。
 其時三千代は急に心細さうな低《ひく》い声になつた。さうして怨《えん》ずる様に、
「未《まだ》ですわ。だつて、片付《かたづ》く訳が無《な》いぢやありませんか」と云つた儘、眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》つて凝《じつ》と代助を見てゐた。代助は折《を》れた小切手を取り上《あ》げて二つに開《ひら》いた。
「是丈ぢや駄目《だめ》ですか」
 三千代は手を伸《の》ばして小切手を受取《うけと》つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と静《しづ》かに小切手を畳《たゝみ》の上《うへ》に置《お》いた。
 代助は金《かね》を借りて来《き》た由来を、極ざつと説明して、自分は斯《か》ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を出《だ》さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは悪《わる》く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、私《わたくし》も承知してゐますわ。けれども、困《こま》つて、何《ど》うする事も出来《でき》ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫《わび》を述べた。代助はそこで念を押した。
「夫《それ》丈で、何《ど》うか始末が付《つ》きますか。もし何《ど》うしても付《つ》かなければ、もう一遍|工面《くめん》して見るんだが」
「もう一遍《いつぺん》工面するつて」
「判を押《お》して高い利のつく御金《おかね》を借《か》りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消《け》す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方《あなた》」
 代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質《たち》の悪《わる》い金《かね》を借《か》り始めたのが転々《てん/\》して祟つてゐるんだと云ふ事を聞《き》いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通《とほ》つてゐたのだが、三千代が産後《さんご》心臓が悪《わる》くなつて、ぶら/\し出《だ》すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程《それほど》烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際《つきあひ》上|已《やむ》を得ないんだらうと諦《あきら》めてゐたが、仕舞にはそれが段々|高《かう》じて、程度《ほうづ》が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体《からだ》が悪《わる》くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私《わたくし》が悪《わる》いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい顔《かほ》をして、責《せ》めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸《さぞ》可《よ》かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
 代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方《こつち》から問《と》ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱《よは》つちや不可《いけ》ない。昔《むかし》の様に元気に御成《おな》んなさい。さうして些《ちつ》と遊びに御|出《いで》なさい」と勇気をつけた。
「本当《ほんと》ね」と三千代は笑つた。彼等は互《たがひ》の昔《むかし》を互《たがひ》の顔《かほ》の上《うへ》に認めた。平岡はとう/\帰つて来《こ》なかつた。

0 件のコメント: