2008年11月12日水曜日

十四の九

 三千代の兄《あに》と云ふのは寧《むし》ろ豁達な気性で、懸隔《かけへだ》てのない交際振《つきあひぶり》から、友達《ともだち》には甚《ひど》く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此|兄《あに》は自分が豁達である丈に、妹の大人《おとな》しいのを可愛《かあい》がつてゐた。国から連れて来《き》て、一所に家《うち》を持《も》つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情|合《あひ》と、現在自分の傍《そば》に引き着《つ》けて置きたい欲望とからであつた。彼《かれ》は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打《う》ち明《あ》けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
 三千代が来《き》てから後、兄《あに》と代助とは益|親《した》しくなつた。何方《どつち》が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分《わか》らなかつた。兄《あに》が死んだ後《あと》で、当時を振り返つて見る毎に、代助は此《この》親密の裡《うち》に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。兄《あに》は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯《か》くして、相互の思《おも》はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄《あに》は在生中に此意味を私《ひそか》に三千代に洩《も》らした事があるかどうか、其所《そこ》は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
 代助は其頃から趣味の人として、三千代の兄《あに》に臨んでゐた。三千代の兄《あに》は其方面に於て、普通以上の感受性を持つてゐなかつた。深い話《はなし》になると、正直に分《わか》らないと自白して、余計な議論を避《さ》けた。何処《どこ》からか arbiter《アービター》 elegantiarum《エレガンシアルム》 と云ふ字を見付出《みつけだ》して来《き》て、それを代助の異名の様に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は隣《とな》りの部屋で黙《だま》つて兄《あに》と代助の話《はなし》を聞いてゐた。仕舞にはとう/\ arbiter《アービター》 elegantiarum《エレガンシアルム》 と云ふ字を覚えた。ある時其意味を兄《あに》に尋ねて、驚ろかれた事があつた。
 兄《あに》は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。後《あと》から顧みると、自《みづか》ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より喜《よろこ》んで彼《かれ》の指導を受けた。三人は斯くして、巴《ともえ》の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴《ともえ》の輪《わ》は回《めぐ》るに従つて次第に狭《せば》まつて来《き》た。遂《つい》に三巴《みつどもえ》が一所《いつしよ》に寄《よ》つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠《か》けたため、残る二つは平衡を失なつた。
 代助と三千代は五年の昔《むかし》を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて来《き》た。二人《ふたり》の距離は又|元《もと》の様に近くなつた。
「あの時|兄《にい》さんが亡《な》くならないで、未《ま》だ達者でゐたら、今頃《いまごろ》私《わたくし》は何《ど》うしてゐるでせう」と三千代は、其時を恋《こひ》しがる様に云つた。
「兄《にい》さんが達者でゐたら、別《べつ》の人《ひと》になつて居《ゐ》る訳ですか」
「別な人《ひと》にはなりませんわ。貴方《あなた》は?」
「僕も同じ事です」
 三千代は其時、少し窘《たしな》める様な調子で、
「あら嘘《うそ》」と云つた。代助は深《ふか》い眼《め》を三千代の上《うへ》に据ゑて、
「僕は、あの時も今《いま》も、少しも違《ちが》つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは眼《め》を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を外《そ》らした。さうして、半《なか》ば独り言《ごと》の様に、
「だつて、あの時から、もう違《ちが》つてゐらしつたんですもの」と云つた。
 三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過《ひくすぎ》た。代助は消《き》えて行く影《かげ》を踏《ふ》まへる如くに、すぐ其尾を捕《とら》えた。
「違《ちが》やしません。貴方《あなた》にはたゞ左様《さう》見える丈です。左様《さう》見《み》えたつて仕方がないが、それは僻目《ひがめ》だ」
 代助の方は通例よりも熱心に判然《はつきり》した声《こえ》で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益|低《ひく》かつた。
「僻目《ひがめ》でも何でも可《よ》くつてよ」
 代助は黙《だま》つて三千代の様子を窺《うかゞ》つた。三千代は始めから、眼《め》を伏《ふ》せてゐた。代助には其長い睫毛《まつげ》の顫《ふる》へる様《さま》が能く見えた。

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