2008年11月12日水曜日

十六の三

「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と苦《く》笑しながら答へたが、頭《あたま》の中《なか》は焙炉《ほいろ》の如く火照《ほて》つてゐた。然し三千代は気にも掛《か》からなかつたと見えて、何故《なぜ》とも聞《き》き返さなかつた。たゞ簡単に、
「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目《まじめ》になつた。
「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼《たより》にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話《はな》して仕舞ふが」と前置《まへおき》をして、夫《それ》から自分と父《ちゝ》との今日迄の関係を詳しく述《の》べた上《うへ》、
「僕の身分《みぶん》は是から先《さき》何《ど》うなるか分《わか》らない。少《すく》なくとも当分は一人前《いちにんまへ》ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ淀《よど》んだ。
「だから、何《ど》うなさるんです」
「だから、僕の思ふ通り、貴方《あなた》に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」
「責任つて、何《ど》んな責任なの。もつと判然《はつきり》仰《おつ》しやらなくつちや解《わか》らないわ」
 代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に価《あたひ》しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから富《とみ》が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、夫《それ》より外《ほか》に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。
「徳義上の責任ぢやない、物質上の責任です」
「そんなものは欲《ほ》しくないわ」
「欲《ほ》しくないと云《い》つたつて、是非必要になるんです。是から先《さき》僕が貴方《あなた》と何《ど》んな新《あた》らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「解決者でも何《なん》でも、今更《いまさら》左様《そん》な事を気にしたつて仕方がないわ」
「口《くち》ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼《め》に見えてゐます」
 三千代は少し色《いろ》を変《か》へた。
「今《いま》貴方《あなた》の御父様《おとうさま》の御話《おはなし》を伺《うかゞ》つて見ると、斯《か》うなるのは始めから解《わか》つてるぢやありませんか。貴方《あなた》だつて、其位な事は疾《と》うから気が付《つ》いて入《いら》つしやる筈だと思ひますわ」
 代助は返事が出来なかつた。頭《あたま》を抑えて、
「少し脳が何《ど》うかしてゐるんだ」と独《ひと》り言《ごと》の様に云つた。三千代は少し涙《なみだ》ぐんだ。
「もし、夫《それ》が気になるなら、私《わたくし》の方は何《ど》うでも宜《よ》う御座《ござ》んすから、御父様《おとうさま》と仲《なか》直りをなすつて、今迄通り御|交際《つきあひ》になつたら好《い》いぢやありませんか」
 代助は急に三千代の手頸《てくび》を握《にぎ》つてそれを振《ふ》る様に力を入れて云つた。――
「そんな事を為《す》る気《き》なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方《あなた》に詫《あやま》るんです」
「詫《あや》まるなんて」と三千代は声を顫《ふる》はしながら遮《さへぎ》つた。「私《わたくし》が源因《もと》で左様《さう》なつたのに、貴方《あなた》に詫《あや》まらしちや済《す》まないぢやありませんか」
 三千代は声を立《た》てゝ泣いた。代助は慰撫《なだ》める様に、
「ぢや我慢しますか」と聞《き》いた。
「我慢はしません。当り前《まへ》ですもの」
「是から先《さき》まだ変化がありますよ」
「ある事は承知してゐます。何《ど》んな変化があつたつて構やしません。私《わたくし》は此間《このあひだ》から、――此間《このあひだ》から私《わたくし》は、若《もし》もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極《き》めてゐるんですもの」
 代助は慄然《りつぜん》として戦《おのの》いた。
「貴方《あなた》に是《これ》から先《さき》何《どう》したら好《い》いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無《な》いわ。何《なん》でも貴方《あなた》の云ふ通りになるわ」
「漂|泊《はく》――」
「漂泊でも好《い》いわ。死ねと仰《おつ》しやれば死ぬわ」
 代助は又|竦《ぞつ》とした。
「此儘《このまゝ》では」
「此儘《このまゝ》でも構はないわ」
「平岡君は全く気が付《つ》いてゐない様ですか」
「気が付《つ》いてゐるかも知れません。けれども私《わたくし》もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時《いつ》殺《ころ》されたつて好《い》いんですもの」
「さう死ぬの殺されるのと安《やす》つぽく云ふものぢやない」
「だつて、放《ほう》つて置《お》いたつて、永《なが》く生きられる身体《からだ》ぢやないぢやありませんか」
 代助は硬《かた》くなつて、竦《すく》むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里《ヒステリ》の発作《ほつさ》に襲《おそ》はれた様に思ひ切つて泣《な》いた。

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