2008年11月13日木曜日

十の五

 三千代の頬《ほゝ》に漸やく色が出《で》て来《き》た。袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を取り出《だ》して、口《くち》の辺《あたり》を拭《ふ》きながら話《はなし》を始《はじ》めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗《の》つて本郷迄|買物《かひもの》に出《で》るんだが、人《ひと》に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂《かぐらざか》に比《くら》べて、何《ど》うしても一割か二割|物《もの》が高《たか》いと云ふので、此間《このあひだ》から一二度|此方《こつち》の方へ出《で》て来《き》て見た。此前《このまへ》も寄《よ》る筈《はづ》であつたが、つい遅《おそ》くなつたので急《いそ》いで帰《かへ》つた。今日《けふ》は其|積《つもり》で早《はや》く宅《うち》を出《で》た。が、御息《おやす》み中《ちう》だつたので、又|通《とほ》り迄行つて買物《かひもの》を済《す》まして帰《かへ》り掛《が》けに寄《よ》る事にした。所《ところ》が天気模様が悪《わる》くなつて、藁店《わらだな》を上《あ》がり掛《か》けるとぽつ/\降《ふ》り出《だ》した。傘《かさ》を持《も》つて来《こ》なかつたので、濡《ぬ》れまいと思つて、つい急《いそ》ぎ過《す》ぎたものだから、すぐ身体《からだ》に障《さわ》つて、息《いき》が苦《くる》しくなつて困つた。――
「けれども、慣《な》れつこに為《なつ》てるんだから、驚《おど》ろきやしません」と云つて、代助を見て淋《さみ》しい笑《わら》ひ方《かた》をした。
「心臓の方《ほう》は、まだ悉皆《すつかり》善《よ》くないんですか」と代助は気の毒さうな顔《かほ》で尋ねた。
「悉皆《すつかり》善《よ》くなるなんて、生涯駄目ですわ」
 意味の絶望な程、三千代の言葉は沈《しづ》んでゐなかつた。繊《ほそ》い指《ゆび》を反《そら》して穿《は》めてゐる指環《ゆびわ》を見た。それから、手帛《ハンケチ》を丸めて、又|袂《たもと》へ入れた。代助は眼《め》を俯《ふ》せた女の額《ひたひ》の、髪《かみ》に連《つら》なる所を眺めてゐた。
 すると、三千代は急に思ひ出《だ》した様に、此間《このあひだ》の小切手《こぎつて》の礼を述《の》べ出《だ》した。其時《そのとき》何だか少し頬《ほゝ》を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善《よ》く分《わか》つた。彼はそれを、貸借《たいしやく》に関係した羞恥《しうち》の血潮《ちしほ》とのみ解釈《かいしやく》した。そこで話《はなし》をすぐ他所《よそ》へ外《そら》した。
 先刻《さつき》三千代が提《さ》げて這入《はいつ》て来《き》た百合《ゆり》の花が、依然として洋卓《テーブル》の上《うへ》に載《の》つてゐる。甘《あま》たるい強《つよ》い香《か》が二人《ふたり》の間《あひだ》に立ちつゝあつた。代助は此|重苦《おもくる》しい刺激を鼻の先《さき》に置くに堪へなかつた。けれども無断《むだん》で、取り除《の》ける程、三千代に対《たい》して思ひ切つた振舞が出来《でき》なかつた。
「此花《このはな》は何《ど》うしたんです。買《かつ》て来《き》たんですか」と聞《き》いた。三千代は黙《だま》つて首肯《うなづ》いた。さうして、
「好《い》い香《にほひ》でせう」と云つて、自分の鼻《はな》を、瓣《はなびら》の傍《そば》迄|持《も》つて来《き》て、ふんと嗅《か》いで見せた。代助は思はず足《あし》を真直《まつすぐ》に踏《ふ》ん張《ば》つて、身《み》を後《うしろ》の方へ反《そ》らした。
「さう傍《そば》で嗅《か》いぢや不可《いけ》ない」
「あら何故《なぜ》」
「何故《なぜ》つて理由もないんだが、不可《いけ》ない」
 代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方《あなた》、此花《このはな》、御嫌《おきらひ》なの?」
 代助は椅子の足《あし》を斜《なゝめ》に立てゝ、身体《からだ》を後《うしろ》へ伸《のば》した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買《か》つて来《こ》なくつても好《よ》かつたのに。詰《つま》らないわ、回《まは》り路《みち》をして。御|負《まけ》に雨《あめ》に降《ふ》られ損《そく》なつて、息《いき》を切《き》らして」
 雨《あめ》は本当に降《ふ》つて来た。雨滴《あまだれ》が樋に集《あつ》まつて、流れる音《おと》がざあと聞《きこ》えた。代助は椅子から立ち上《あ》がつた。眼《め》の前《まへ》にある百合の束《たば》を取り上《あ》げて、根元《ねもと》を括《くゝ》つた濡藁《ぬれわら》を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》り切《き》つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活《い》けやう」と云ひながら、すぐ先刻《さつき》の大鉢《おほはち》の中《なか》に投《な》げ込《こ》んだ。茎《くき》が長《なが》すぎるので、根《ね》が水《みづ》を跳《は》ねて、飛《と》び出《だ》しさうになる。代助は滴《したゝ》る茎《くき》を又《また》鉢《はち》から抜《ぬ》いた。さうして洋卓《テーブル》の引出《ひきだし》から西洋|鋏《はさみ》を出《だ》して、ぷつり/\と半分《はんぶん》程の長さに剪《き》り詰《つ》めた。さうして、大きな花《はな》を、リリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]レーの簇《むら》がる上《うへ》に浮《う》かした。
「さあ是《これ》で好《い》い」と代助は鋏《はさみ》を洋卓《テーブル》の上《うへ》に置いた。三千代は此不思議に無作法に活《い》けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然《とつぜん》、
「あなた、何時《いつ》から此花が御|嫌《きらひ》になつたの」と妙な質問をかけた。
 昔し三千代の兄《あに》がまだ生《い》きてゐる時分、ある日|何《なに》かのはづみに、長い百合《ゆり》を買《か》つて、代助が谷中《やなか》の家《いへ》を訪《たづ》ねた事があつた。其時《そのとき》彼は三千代に危《あや》しげな花瓶《はないけ》の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来《き》た花《はな》を活《い》けて、三千代にも、三千代の兄《あに》にも、床《とこ》へ向直《むきなほ》つて眺《なが》めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方《あなた》だつて、鼻《はな》を着《つ》けて嗅《か》いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。

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